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太っていても、良いんだよ

デブは古来より日本社会において、デブだからという理由で馬鹿にされてきた。

どんなに勉強ができても、頭の良いデブ
どんなに運動ができても、動けるデブ

何をしても、デブだからという理由で、デブではない人たちに一段上から見下ろされるのだ。

昨年4月、私は生来最強のデブだった。
150cm60キロ。
この数値をみて「そんなの序の口だ、デブではない」と怒る人もいるかもしれない。
しかし私にとってこの数値は自分をデブだと思うのに十分値した。
60キロもあると背中にはこんもり脂肪がつくし、二重顎はsnowでもカバーしきれなくなってくる。
服も着れなくなる。
ジーンズのホックはミシミシと悲鳴し、ワンピースのチャックは頑なに上昇を拒む。
私は自分を可愛いと1ミリも思えなくなっていた。
オシャレもお化粧も楽しめない。
デートの時は恋人の隣に並ぶのを心底申し訳なく、心底恥ずかしく思っていた。

そんな達磨みたいな体ではいけないと、一念発起したのが去年の8月。
とりあえず走れば痩せるだろうと、1日5キロ、1ヶ月で100キロ走った。
150cm60キロの体は1ヶ月走り続けた結果、150cm58.8キロくらいになった。
毎日30度を超える熱帯夜の中を汗だくになりながら100キロも走ったのに、減ったのはたったの1.2キロ。もう何もかもが嫌になった。
なぜ減らない?こんなに努力してるのに。
私の心の病はこの辺りから影を落とし始めた。

11月、自分が醜すぎて死にたくなった。
とにもかくにもデブな自分が許せなくなっていた。醜い図体でのうのうと食べ、生命を維持する己に吐き気がした。
自分の顔も体も心も、存在全てを憎んだ。
恋人に対する「醜い私を見捨てないで」という執着が、愛情や信頼を超えてしまった。
そして仕事にいけなくなった。

仕事を休んでから、私はとにもかくにも美容に勤しんだ。
理由はよくわからない。
けれど、死にたいという気持ちを唯一忘れられるのは化粧をしている時だった。
やがて食べることへの執着を捨てようと思い始めた。
人生初のファスティングをした。
アーユルヴェーダを学んだ。
今まで憎んでいた食べる行為を愛せるようになった。
ダイエット目的で通い始めたヨガは、いつのまにか身体という自己の理解のためのものになっていった。

そしていま、私の体重は紆余曲折を経ながら、4月から7〜8キロ減量した。
決して痩せているわけではない。まだまだ落としたい脂肪はたくさんある。
けれど、今の体を愛するようになった。
相変わらず人より身長が小さいことも、ちょっと体重が多いことも、目が一重であることも、顔の肉が笑うと分厚く見えることも、気にはなる。
でも、それは個性だと思うようになった。
そしてそれらは努力や気遣いで魅力に変えることも可能なのだ。

私は痩せて幸せだ。
9号のドレスが着れるようになった。
ヨガのポーズが綺麗に撮れるようになった。
snowの自撮りも可愛くなった。
私は痩せた自分が大好きだし、まだまだこれから痩せていく自分に期待している。

でも、一方で痩せることが幸せにつながるわけではないとも思う。
今の自分は60キロの自分よりもできることがたくさんある。その気持ちが幸福だ。

私は痩せて幸せだ。
でも、だからといって太っている人みんながみんな痩せなくても良いと思う。
今の自分を愛せる人は、今の自分をより魅力的に魅せる方向に向かっていければ良いのだ。
それは何も減量や美容に結びつくものだけではない。私にとっては、かわいくなることが自己実現だっただけ。
これからも年甲斐もなく貪欲にかわいいを追求していくし、かわいいに振り回されていくだろう。
でもそれが好きだから良いのだ。

Twitterに書き込まれる心ないデブへの悪口やInstagramに掲載される過激なダイエットへの先導。SNSには無数の低俗で余計なお世話なご意見が転がっている。
デブは痩せろとか、一重より二重の方がかわいいとか、女は化粧しろとか、そういう誰ともなく誰かから押し付けられたプレッシャーが、世の中から少しずつ除去されていけば良いなと思う。
それが多様性のある社会なのだ、多分。

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