コロナで見えてきた国民性
最近の流れは
思いの外色々なことが
浮き彫りになってきてて凄いですよね。
今回のことで私がとくに感じたことは
安心、安全は当たり前でも
タダでもないんだということです。
これはいかに私自身が
平和ボケしていたかを痛感させてもらいました。
これに関しては
当たり前に提供しているように
感じさせることができる日本国家は
やはり凄い国なのかもしれない…
と思いました。
日本と比べかなり高額の税金を払うことによって、提供されている安心安全はたしかに存在しています。
過去に様々な災害が起きたときはそこに全く気付けなかったんですよね。
むしろ政府の対応は何だ?とさえ感じていたと思います。とくに、原発関連は。
でも、本当に私達が当たり前に生きて、当たり前に感染症やらその他あらゆる災害で守られていることは、決して当たり前でも、タダでもなくて、莫大なお金の動きのなかで、当たり前のように提供されているように、見せているだけなのだなと。今回それを強く感じさせて頂きましたね。
標準予防策だって、もしかしたらお金を払って得られる情報になり得るのかもしれません。だけど無料で得ることができるんですよ、今なら。だけど、それは当たり前でもないし、沢山の人がお金をかけて築いてきたエビデンスがあるからこそ、私達は得ることができるんですよね。医師からの豆知識、情報…沢山の情報が入り組んでいます。それを私達は選んで得ることが試されているのかもしれません。何が今大事な情報なのか…自己責任ではありますが。
だけど当たり前に提供されるものだと思い込んでしまっていたら時すでに遅し…情報リテラシー能力が、標準予防策でもあるわけです。
とはいえ、そのように「安心安全」が当たり前のように感じている人が多いと情報過敏にもなり得ます。まさに、今のあらゆるメディアがそうでしょう。
俯瞰してみるために必要なことは、医療知識でも技術でもありません。まして、政府批判でもないわけです。
例えば私達がこうして、当たり前に毎日をすごし、当たり前に仕事ができるということが決して当たり前ではなく、莫大なお金が流れで成り立つものであるということを、きちんと知ることから始まるわけですね。
これを、きちんと理解出来ている人は今の日本では私自身も含め殆どいないのだと思います。そして、それを理解出来得ない限り、同じような危機的状況は繰り返されていくように感じました。なので、この記事をあげることに決めたわけです。
このことをきちんと踏まえてこそ真の標準予防策は機能していくと言っても過言ではないでしょう。なぜなら、
(安心安全が)当たり前だと思っていれば、いくら知識を得てもリテラシー能力がないわけで、よって、自分だけの体調、状態によってのみ行動をするようになるわけです。
少なくとも自分の行動が、誰かの命に関わるような選択をしている、という感覚は芽生えることがないわけですよ。
これは、国の問題ではなく、国民の問題なのであります。(安倍さん風)
自分は大丈夫だから、と全く対策を起こさなければ、沢山の方が亡くなってしまうかもしれないのです。つまり、こうした思慮的概念がなければ、標準予防策さえ、意味を為さないわけなのです。
マスクがある、ないではなく、アルコールがある、ないでもなく、安心安全は決して当たり前でもタダでもなく、
多大なお金の流れで提供され、それをさも当たり前かのように私達はその中で生きてきた事実をしること、
そして、それらが当たり前ではない以上、絶対でもないということを知って
初めて、自分ができることは何かを行えるようになるわけです。知らないうちに誰かに移して死なせてしまう可能性があるということを目の当たりにするからです。
最後にもう一度いいます。
安心安全は当たり前でもタダでもありません。だからこそ、標準予防策を自分が行うしか方法はないんです。