子供は人間だ
当たり前のことをタイトルに書きました。
そう思って、お子さんと触れ合っていますか? 自分の子供の頃のことをお忘れになっている親御さんがいるなと時折、思うことがあるのです。
幼い自分と今の自分
私は昔の思い出話をするとき、たまに枕詞を置きます。
「なんでそうしようと思ったのか覚えてるだけにアホらしいんだけど、」
もちろん、「そうしようと思った理由」を覚えていないことの方が多いのですが、いくつかあるんですね。
子供らしい失敗で、今ちゃんと考えたら失敗しか想像できないのに、当時の自分はできると思ってやってしまったことが。また「できる」と思ったとき、自分はなんてすばらしいアイデアを思いついたんだろう!! と思ってるんですよ。面白い。
一つ、私の実際の例を申し上げると、小学生のときに鉛筆を手に持って運ぶのが煩わしくて、「どうしたら手に持たずに運べるか」とウンウン考え、内ばきの中に半分突っ込み、先端の方は外に出しておいていつでも取り出せるようにしたのです。わー自分てんさーいとか思って歩き出しました。
歩き出した直後、見事に足の甲に突き刺さって、一瞬何が起こったのかわからなかった。アホなの? アホです。
その跡はいまだに足の甲に残っています。見るたびしみじみアホだなと思う。
私はその足の鉛筆で刺した跡を見るたびに、子供の思考の傾向を知るのです。
年齢はゲームのレベルみたいなもの
「みたいなもの」ですからね。
というのも、やっぱりある程度経験を積み重ねて、どんなに子供みたいに成長した大人でも、子供みたいに過ごせないことがあるわけです。
昔、「リアル・スティール」という映画を見たんですが、その日暮らしの男性がひょんなことから離れて暮らしていた自分の実の息子としばらく生活しないといけなくなったんです。
自分は大人になれてない、いつまでも周りに心配をかけていると思っていたその男性は、自分以上にまだ世間を知らない息子の言葉に戸惑うんです。詳しくセリフを思い出せませんが、息子が「どうして戦うのを諦めるのさ!!」と、だいたいこういう意味合いの言葉を叫ぶのですが、危ないやつらに目をつけられてしまったし、それ以上に子供を育てるなんて俺には無理だと色々考えて、子供を養育者(元妻の身内)の元へ戻すんです。
どうでしょう?
自分を無鉄砲だガキ臭いと思っている男性も、息子ほど幼くはいられなかったのですね。
前澤社長も子供心を忘れないでいたいとおっしゃっているようですが、忘れないでいられる部分と、大人にな必要がある部分と、きちんと分けて考えられるのが「大人になること」の一つなのではないかと。
今はパラパラーと流し見でも本や新聞を読める私たちも、小学生の頃は漢字に四苦八苦していたわけです。でも、今や場合によっては流し見ですよ。
ドラクエで例えるなら、メラを覚える前に上位のメラミやメラゾーマは唱えられなくても、メラゾーマを打てるレベルならメラも打てる。メラガイアーってのも最近あるんですよね。
子供を育てるとか人に教えるとかいうことを考えるときに覚えておくべきなのは、どうやったら子供が文章に興味を持つかのハウツー等ではなくて、「文字を読めなかった自分のこと」ではないかと。
そしてそれは、今子供を育てる自分がかつて確かに持っていた姿なわけで。
「子ども叱るな来た道だ、老人笑うな行く道だ」
とはいえ、必要なときには子供を叱るべきですけどね。
あるお子さんの話
先日、ママ友とお話していたとき、その方はたまたま歩き始めるのが遅かった息子さんに、話せるようになってから「どうして手を離して歩かなかったの?」と聞いてみたそうです。すると、当時3歳の息子さんからこんな返事が返ってきたそう。
「歩けるなーって思えるまで、手を離したくなかったんだ」
つまり、自分でも手を離して歩けるかなとは思っていたけど、もう大丈夫と思えるまではしないでいたというのです。3歳でそう伝えられたということは、1歳半の段階でも確たる意思としてそう思っていたからだと思うのです。
人間、思ったこともないことは話せません。小さい子供ならなおさらです。
こういう言葉に対して「嘘おっしゃい、覚えてもいないことを勝手にでっち上げるんじゃないよ」という人は、子供の可能性を潰す人です。
もちろん、ときに事実と違うことを言うこともありますが、大人でもそういうことはよくありますし。
そういうときに相手の思いを大事にしてあげる。それが「子供を認める」、ひいては「他人を認める」ということにつながるのかなと思うのです。
子供も人間、他人も人間。
相手と向き合う気持ち、自ずとそういう心持ちになれるといいですね。