#ネタバレ 映画「南極料理人」
「南極料理人」
2009年作品
離れる方が見える事もある
2009/8/29 9:45 by さくらんぼ
( 引用している他の作品も含め、私のレビューはすべて「ネタバレ」のつもりでお読みください。 )
初めてのハワイ旅行で、朝はパンケーキにパイナップル・ジュース、昼はハンバーガーにコーヒー、夜はステーキの様な物ばかり食べていたら、無性に味噌、醤油が恋しくなりました。
日本に帰って真っ先に食べたくなったのは、魚の塩焼き、味噌汁、炊き立ての白いご飯、海苔、生卵、お新香でした。
日本に居ても、ときどき無性にインスタント・ラーメンが食べたくなります。ランチタイムには店で麺類を食べていても、インスタント食品の味で無いとダメなのです。
幼き頃の様に、クリスマスには生クリームではなく、一晩で硬くなるバター・クリームのケーキを、刺身には本物のワサビではなく、水を入れて練る、粉っぽいワサビが食べたいのです。
湯豆腐には市販の酢醤油も良いですが、そんなものが無い時代に母が手作りしてくれた、蕎麦つゆにも似た甘いツケダレをもう一度食べたい。
こちらは人物の話ですが、一人旅でグアム旅行をしたときの話です。まだ真っ暗な早朝、ホテルにチェックインします。部屋に荷物を置き、とりあえず洗面所で用をすませて戻ったとき、電気が消えていてガランとした部屋がたまらなく寂しいのですね。
こんなときベッドに腰を下ろしてバッグを開き、静かに荷物の整理などしている女性がここに居たとしたら、どんなに素晴らしいだろうって夢想しました。そうしたら想いもしなかった人の顔が浮かんできて、似たような心理テストがあったことも思い出し、我ながら深く感じ入った思い出がありました。
どなたかも言われていましたが、人は離れる方が見える事もある、のです。
主人公も、妻から「話したくない」と言われたので観客が沸いていましたが、あれは「声を聞くと逢いたくなるから」と解釈するのが、いま思えば妥当だと思いました。テレビ電話のシーンもそうですね。妻子は自分の身分を明かさずに主人公と話していました。あの屈折した心理はラストの動物園のシーンにもありました。妻子は主人公の手料理を久しぶりに食べたいが為のお芝居をしたんだと思います。
そしてラストシーンの「美味い!」は上手かったですね。B級グルメばんざいです。
★★★☆
追記 ( 芝生のある遊歩道 )
2016/2/18 16:51 by さくらんぼ
バブルの頃だったでしょうか。地元の地下街には、砂利をもちこんでテニスコート1/4ほどの大きな枯山水が作られていました。でも、あれは掃除が困難なのですね。やがて厚さ5ミリほどのホコリが毛布のように積もってしまい、撤去されました。
どこかの会社でもロビーに坪庭的な枯山水を作ったところがありましたが、予想通り、これもホコリで撤去。ロビーにホコリでは会社のイメージにもダメージを与えますからね。
記憶が正しければ、先日決まった2020年東京オリンピック・メイン会場プランにも、日本の伝統文化の紹介として、屋内に枯山水を作るとか聞きましたが、その前に、どうやって掃除するのか考えた方が良いです。オリンピック期間だけなら別ですが。
ところで、わが町の公園には、テニスコートやゲートボール場が作られているのですが、その中にテニスコート2倍ほどの芝生空間もあります。中央を幅1mほどの遊歩道が通り、芝生の外にはベンチもあります。
私は長い間、“芝生のある遊歩道”だとしか思わなかったのですが、それは“芝生を使った枯山水”だったのですね。芝生の中に大きな石が、絶妙に8つ配置されていまして、ベンチから眺めるものだったのです。
それに気づくと、たとえば車が3割ぐらいしか入っていない大きな駐車場も、私にとっては枯山水だったのかもしれません。
客が3割ぐらいしかいなくて、静かなシートが目立つ映画館も、
良く整理整頓され、最低限の物しか置いていない、どなたかのデスクもそうです。
長い間、説明困難でしたが、公園で気がつきました。
確かに、それらは心落ち着くものだったからです。
追記Ⅱ ( 枯山水の鑑賞法を考えてみる )
2016/2/27 14:13 by さくらんぼ
以前、公園に芝生で作った枯山水がある話をしました。
通りすぎる、わずかな時間ですが、あらためて、そこを眺めてみましたら、少し心に響くものがありました。
それで“そもそも枯山水とはどう観賞すべきなのか”を調べてみました。でも私の感じた通りの説明が見つからなかったので、少し書いてみます。
枯山水は「圧倒的な存在感のある石と、何もない空間で、象徴的に有と無(空)を、デジタル表現しています。でも観る者の心はその行間を漂うのです。つまり、枯山水もアナログを味わうものだったのかもしれません」。
座禅が力技でひたすら無心になるものだとしたら、枯山水は手放した心が行間に遊ぶ事を利用し、「高度に精神性の高いその空間」にふさわしくない、言わば定型外の雑念・邪念を排除し、結果的に無心に近づくことを目的としたものだったのかもしれません。
それは、さながら気功の「三円式站とう法」で、お腹の前に出来る直径1mほどの神秘の「気のボール」を両手でホールドし、「その手触りに意識を集中することで、雑念を排除し、無心に至る」というスタイルとも似ているのかもしれません。そして「気のボール」は、その神秘性において石に勝る圧倒的な存在感があり、また同時に無(空)でもあるのです。
ところで、潮音庭(建仁寺)にある庭は、「世の中はすべて○△□で成り立つ」という禅の教えがあり、それを形にした庭なのだそうです。 「△○□」と言えばマンガ「おそ松くん」の「チビ太のおでん」ではないですか。チビ太君というか、おでんはそんな聖なる存在だったのか。
追記Ⅲ ( 枯山水的なもの )
2016/2/27 14:15 by さくらんぼ
私は、清々しい朝の、広々とした公園に立ち、「スワイショウの1」もやっています。これは体から邪気を捨てる気功です。実際にスッキリとした気分になります。枯山水の前で邪念を捨てていく体とも似ていますね。
ならば「断捨離」で不要なものを捨てていき、気持ちの整理をするのも、枯山水な行動でしょうか。
同様に、机の上を整理整頓するのも、清々しい気持ちになるのでプチ枯山水。
精神性の高さで言えば、バッハのシンプルな小品は、音楽の枯山水なのかもしれませんね。シンプルな音が石であり、余韻・余白が砂です。
( 最後までお読みいただき、ありがとうございました。
更新されたときは「今週までのパレット」でお知らせします。)