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#ネタバレ 映画「デンジャー・クロース 極限着弾」

「デンジャー・クロース 極限着弾」
2018年作品
攻撃は最大の防御なり
2020/6/26 22:20 by さくらんぼ

( 引用している他の作品も含め、私のレビューはすべて「ネタバレ」のつもりでお読みください。)

感覚的には118分の8割が戦闘シーンだったように思います。

まさに戦場を体験する一本でした。

そして、私には戦争体験がありませんから、軽々にこんなことは言ってはいけないのかもしれませんが、劇場で体験した「極限着弾」の気分は、在職中を連想させました。

じっと机で書類をめくっているだけでも、窓口で話をしているだけでも、電話番だけでも、傍目の静けさとは違って、心の中には暴風雨が吹いていることもあるわけで、それを可視化すると、映画の中の彼らとそんなに大きな違いは無いように思ってしまったのです。

この辺りは、映画「アルキメデスの大戦」で、菅田将暉さん演じる天才数学者たちが、必死に計算するシーンの記憶がある方には分かっていただけると思います。

刺激的なタイトルとは違い、エグイシーンもほとんどないので、その点も評価できます。

★★★★

追記 ( 攻撃は最大の防御なり② ) 
2020/6/27 8:52 by さくらんぼ

弾薬が不足したのでヘリで現場に届けようとしましたが、基地の上官は「この状況では飛べない」と言いました。しかしパイロットが「判断の権限はパイロットにある」と言って、独断飛び立つのです。軸足がどこにあるのかは大切ですね。

又、現場を助ける作戦で、10台ぐらいの装甲車で一時間かけて救出するプランが浮かび、「非常識だ」と上官同士が対立するのです。私は軍事オタクではないのでよく分かりませんが、この作戦は軍事常識に反するものらしいのです。しかし最終的には「評価は歴史に任せる」として強行しました。

デンジャー・クロース作戦を含め、この三作戦とも常識外に能動的で、そこから連想される言葉が「攻撃は最大の防御なり」なのです。

追記Ⅱ ( 攻撃は最大の防御なり③ ) 
2020/6/27 9:08 by さくらんぼ

大勢の敵に囲まれたオーストラリアの小隊は、味方に見放されれば全滅を覚悟せねばなりません。

捕虜になるつもりなら、この段階で白旗でしょう。しかし、彼らはそれを潔しとしなかった。

敵はまさか極限着弾作戦をとるとは思わず油断しているはずです。

そこに乗じて極限着弾作戦を強行すれば、小隊には全滅ではなく一部が生き残る可能性も生れます。

ですから、「やけっぱちのバクチ」ではなく「極限下の冷徹な計算」であったのかもしれません。

追記Ⅲ ( 日本の「特殊潜航艇によるシドニー港攻撃」 ) 
2020/6/27 9:31 by さくらんぼ

『 特殊潜航艇によるシドニー港攻撃(とくしゅせんこうていによるシドニーこうこうげき)とは、太平洋戦争中の1942年5月31日に、オーストラリアのシドニーの沖合いで母艦の潜水艦を発進した日本海軍の特殊潜航艇3隻が、シドニー港に停泊中の連合軍艦船に対して行った攻撃である[1]。

…中略…

海軍葬[編集]

自爆した2隻の特殊潜航艇は1942年6月4日、5日に引き上げられ、9日にイギリス海軍から派遣されていたシドニー要港司令官ジェラード・ミュアヘッド=グールド海軍少将は乗員4名(松尾大尉・中馬大尉・大森一曹・都竹二曹)の海軍葬を行った。

戦時中に敵国である日本の軍人に鄭重な礼を尽くすことには、日本軍によるオーストラリア北部への空襲が激化し、多くの死傷者を出している中でもありオーストラリア国民の一部から批判があったが、装甲の薄い小型の特殊潜航艇で港内深くまで潜入し、敵に発見されるや投降することなしに自沈する松尾大尉らの勇敢さに対し、グールド少将は海軍葬で礼を尽くし、葬儀のあとラジオで演説し、豪州国民に訴えた。

「このような鋼鉄の棺桶で出撃するためには、最高度の勇気が必要であるに違いない。これらの人たちは最高の愛国者であった。我々のうちの幾人が、これらの人たちが払った犠牲の千分の一のそれを払う覚悟をしているだろうか」[5]

「戦死した日本軍の勇士の葬儀を我が海軍葬で行うという私に、非難が集中していることは承知している。けれど私は、あえてこの葬儀を実行する。なぜなら、もし我が国の兵士が彼らのように勇敢な死を遂げた場合、彼らにもまた、同様の名誉ある処遇を受けさせたいためである…」[4]

…中略…

引揚船の展示と慰霊

引き上げられた特殊潜航艇は、戦時オーストラリア国民の危機意識を高め、戦時募金を募る目的でオーストラリア国内4,000キロを巡回展示されたあと、1943年4月28日にオーストラリアの首都キャンベラのオーストラリア戦争記念館(英語版)に展示された。

屋外に展示されていた間は、様々ないたずらや破壊行為の標的にされたが、中でも1966年に現地の学生らによって黄色のペンキを塗りつけられた事件が悪名高い。これは当時流行していたビートルズのヒット曲の「イエロー・サブマリン」にかこつけた洒落とのことである。しかし1980年代に同記念館の館内に展示・保存されて以降は大きな事件はない。

現在ではシドニー湾への侵入経路や戦死した乗員に関する詳しい説明パネルが付されている。海上自衛隊の練習艦隊がシドニー港に寄港する際には隊員が慰霊を行うのが通例である。75周年に当たる2017年5月31日には、日豪両国による両軍戦没兵士の追悼式典が開かれた[7]。 』

「 特殊潜航艇によるシドニー港攻撃 」

(ウィキペディアより抜粋)

オーストラリアではこの件に対し、長年にわたり複雑な感情があったようです。しかしウィキペディアによれば、現在は沈静化している模様。

私は、もしかしたら、この「日本の特攻精神」が、映画「デンジャー・クロース 極限着弾」の舞台となった「ロングタンの戦い」を、オーストラリアに再評価させたのではないのかと、ふと思うのです。そして映画化につながったのかもしれません。


( 最後までお読みいただき、ありがとうございました。
更新されたときは「今週までのパレット」でお知らせします。)


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