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#ネタバレ 映画「ふしぎな岬の物語」

「ふしぎな岬の物語」
2014年作品
なまぐさ坊主バンザイ
2014/10/19 18:45 by さくらんぼ

( 引用している他の作品も含め、私のレビューはすべて「ネタバレ」のつもりでお読みください。 )

「岬」とは、極東日本のことでしょうか。

喫茶店などの窓は一部ステンドグラス風であり、母屋は白塗りの教会風、店主・柏木悦子のコートもグレーの中世風で、彼女はキリスト教シスターの記号でしょう。

彼女は魔法を使います。

いや、魔法でも何でもありません。気功でも、手のひらにある「労宮」というツボから「気」を出し入れしていますから。

「気」は、一部の人には目視できますが、見えない人には見えないので、もし相手に信じてもらう必要がある場合には、喫茶店で、手をかざして、相手の目の前で飲み物に「気」を入れ、その場で味を変えてみせたりすることもあるそうです。つまり、あれは「気」の世界では知られたパフォーマンス。でも、この映画ではキリスト教シスターの魔法として、演出されていました。

また、だきしめて「大丈夫、だいじょうぶ!」と言うのは親子や、恋人同士にとっては、説明不要の技ですね。でも、気功的に言うと、二人の「気」をジョイントさせ、言葉だけでなく「気」を媒体としても「だいじょうぶマイフレンド」との念を送り込む技なのでしょう。

これは気功師が患者に手をかざして(抱きしめません)癒すのと、ある意味同じ。もちろんサユリストなら、小百合さんから名前を読んで微笑んでもらうだけでも効果絶大かも。「気」は情報であり、エネルギーでもあるのです。

軽自動車のCMで、渡辺謙さんが、両手のひらの間にエネルギー波をみなぎらせるシーンがあります。あのように「気」は飛ぶのです。映像は特撮でしょうが「気」が見える人にとっては、実際にも、概ね、あのように見え、手のひらでも感じられるものなのです。

これは、ある意味、宗教映画でした。

映画の冒頭から、仏教のお坊さんと、キリスト教の牧師さんが、なにやらゲームをしていました。やがて一方が八百長をして勝ち、あとで懺悔室で八百長の懺悔をしていました。

結婚式のシーンはキリスト教式の結婚式ですが、仏教のお坊さんも出席しており、お酒に酔っ払っていました。あれは、みごとに八百万の神の国の、なまぐさ坊主の体でした。一神教の国ではありえない風景なのでは。

「土佐の高知の はりまや橋で 坊さんかんざし買うを見た よさこい よさこい」という歌があります。○○原理主義勢力が、世界中で問題を起こしている昨今、坊主はなまぐさい、ぐらいでちょうど良い、が正解なのかもしれません。

これは、ある意味、羊(喜劇)の皮を着た…でも内面では○○原理主義へ説教もしているオオカミ魂の映画なのかも。

そんな意味では、映画「ジゴロ・イン・ニューヨーク 」と同じような主題をもっていたのでしょう。あるいは映画「千と千尋の神隠し」を思い出します。だから世界が評価したのです。

この桃源郷には日本人のアイデンティティーである「和」が、いささかデフォルメ気味に描かれていますが、その「和」こそが「国際問題の解」なのだと。

クジラとの和も出てきましたね。

クジラを食いながら、でもクジラを単なる物質だけとは見ないで、生きものとして、うやうやしく祭る文化です。あ~クジラのあみ焼き熱々ステーキを塩でたべたい。

異文化を、なんでも、ちゃんぽんにして、和してしまう日本文化への賛歌。「 いいじゃないの幸せならば」( 第11回日本レコード大賞 歌 佐良直美)が、ふと浮かぶ。

その昔、TVでビートたけしさんの、どたばたコメディが多数ありましたが、のちに北野武監督は、自分の映画でもそれを再現しました。日本人の目からは見飽きていて「なんだ、こんなもん」かもしれませんが、外国人の目から見れば「すっごい新鮮」だったのでしょう。大好評でした。たぶん、それと同じ理由で、映画「ふしぎな岬の物語」のドタバタぎみの喜劇も大好評だったのかもしれません。

どこかで読みましたが、この喫茶店は実在し「音楽と珈琲の店 岬」とか言うようです。その名に呼応するように、映画の中には、たぶんヤマハの高級ステレオアンプと、同レコードプレーヤーに、LPレコード、そしてティアック社あたりが出していそうなアンティーク・スタイルを模した電蓄がありました。

おじさんとしては、往年の本物アンティークな一体型高級電蓄が大変懐かしい。子供時代には高くて買ってもらえなかったし、大人買いができる今は、もう市場にはなくなってしまったから。

もちろんラジカセの親戚みたいな、お値打ち価格の電蓄ならあるけれど、ものたりない。もっと一生ものとして、ワックスで磨いたり、所有する喜びを味わえるような高級感のある、ハイセンス・ハイグレードものが良い。

流行の近未来的デザイン・ハイレゾ・ステレオもよいけど、歳を取るとノスタルジーも捨てがたいのだから…あっ、話が脱線しました。

戻します。

神に、死者に、仕えていた店主・柏木悦子は、ラストでは幸福感満載とはいきませんでした。シスターでもやっぱり人間とも交流しなくては…映画「道」が語る、人を避けるシスターたちへのお説教も少し思い出したりして。

そう言えば、昔読んだ本に「あたなを悲劇が襲ったら、まず神の前で落ち着きを取り戻しなさい。それでも、まだ慰めてほしいのなら、のちに人間に向かいなさい」みたいな事が書いてありました。落ち着かないうちに、いきなり人間に向かっても、相手が困惑して迷惑だからです。

もし神が見つからなければ、五味 康祐さんみたいに、ステレオの前で、バッハやモーツァルト、ベートーヴェンなど、お好みの神の代理人に懺悔なさい。

彼女は、これからは、自分の幸福のために人間に向かうことができるのでしょう。これは、ハッピーエンド前の、春は名のみの早春賦だったのかもしれません。

今回は(も)ちゃんぽんレビューになりました。

そして寒い冬には、長崎あたりへ行って、熱々の、胡椒たっぷりの、野菜たっぷりの、おいしい、ちゃんぽんでも食べたくなりました。

★★★★

追記 ( 女優の涙 ) 
2014/11/1 11:29 by さくらんぼ

昔から家業を継ぐ子供たちがいます。

大変ですね。

なかでも国家資格が必要な家業の後継ぎは、特に大変です。

彼(彼女)たちは、物心ついた時から(母親のおなかの中にいるときから、母の気持ちの影響を受けるという人もいます)、両親の期待を一身に集め(一種の洗脳だと言う人もいます)、その使命貫徹のために精進を開始するのです。

彼(彼女)たちは猛勉強して国家資格を獲得する事だけが、唯一無二の親を喜ばすことであり、それが出来ない場合には、自分の存在価値すら消滅すると、感じているかもしれないのです。

こうして自分の夢のためでなく、親の夢のために「自分の本心を抹殺する」のです。

人は生まれながらに、いろんな性格、能力を持っています。

大人になった時には、その性格にあった、能力にあった仕事につくのが幸せでしょう。それがすぐには見つからないにせよ、それを探す自由が普通の子供には有ります。

しかし、家業を継ぐことが使命の子供には、幼子の時から、そんな自由はありません。

でも、このご時世、仕事があるのは嬉しいことじゃないか、食っていければ幸せじゃないか、と言う意見もあるかもしれませんが、自分の本心を抹殺するクセを付けた子供は、やがて、自分の好みも分からなくなることがあるようです。

そんな子が、例えば将来、大人になって異性から告白されても、返事をすることすら、できなくなる可能性もあるとか。

そんな人々も、ある日突然、自分の不可思議さに気づく時がきます。

そして、呆然として、あわてて抹殺した自分(インナーチャイルド)探しを始める…

ところで、

映画「ふしぎな岬の物語 」は、表面的には岬カフェのドタバタ喜劇です。

深層は○○原理主義者への説教でしょう。

でも、最深層を覗くと、これは想像ですが、そこには、女優 吉永小百合さんの、なにか哀しいインナーチャイルドが描かれていたのかもしれません。

彼女には彼女の、他人には容易に察しきれない、深い哀しみがあるのではないでしょうか。

彼女は昔から、押しも押されもしない大女優です。しかし、これは想像ですが、もしかしたら女優の道は、本来彼女が望んだ道ではないかもしれない、そんな可能性はないでしょうか…。

でも、いろいろあったにせよ、女優として、ここまで登りつめたのです。女優なら、映画の中で涙を流す、映画の中に昇華する、というアーティスティックな選択枝もあります。

ちょうど母子家庭で育ったスピルバーグさんが、その哀しみを映画「E.T.」などで、さかんに昇華していたように。

映画「ふしぎな岬の物語」で吉永小百合さんは、村人たちに奉仕するだけで、自分が置き去りになり、不幸になっていく喫茶店主を演じていました。

さかのぼると映画「北のカナリアたち」では、生徒たちに奉仕するだけで、同じく自分が不幸になっていく教師を演じていました。

さらに映画「北の零年」では、夫たちに奉仕するだけで、同じく自分が不幸になっていく妻を描いていました。

吉永小百合さんの映画を、そんなに多くは観ていませんが、このように彼女は、役者としてファンに奉仕するだけで、置き去りにされてしまった本当の自分(インナーチャイルド)の哀しみを、静かに映画に託して昇華していたのかもしれないのです。

又、これで、ふと思い出すのは、カンヌ映画祭でエキュメニカル審査員賞を受賞した、ショーン・ペンさん主演の映画「きっと ここが帰る場所 」でした。あれも、ある意味同じような作品でしょう。しみじみとした味わいの傑作でしたね。

小説にしろ、音楽にしろ、映画にしろ、そこに作者の生きざまを昇華させるのは古今東西に珍しくありませんし、それが作品の質を上げることにもなりえます。

私は思いがけず吉永小百合さんの人間的な一面を覗けたようで、彼女の魅力を再確認できました。

追記Ⅱ ( コーヒーカップと音楽 ) 
2014/11/7 7:01 by さくらんぼ

この映画の原作は読んでいませんが、聞くところによると、小説の中の、あの喫茶店は、客にマッチしたコーヒーカップと音楽でもてなすのだそうですね。

その個性を尊重する姿勢は、嬉しいです。

私が客ならどんなカップと音楽が出てくるのでしょうか。リクエストが必要なのかな、それとも、かってに見立ててくれるのでしょうか。

私は原則として、白色でふちの薄いカップ、が良いです。

喫茶店のコーヒーカップでも、牛丼屋の湯呑みでも、ごくたまに前客の口紅がベットリついたままのものが出てくる事があり(昨日もある店のコーヒーカップで,ゴマ粒大の、食べかすがこびりついていました。)油断できませんからね。白色ならすぐ発見できます。

でも、もしも信頼できるお店なら、ふちの厚い、利休好みの様な黒いカップも良いです。湯呑のように長身で冷めにくい物で。

でも、強い色彩から受けるイメージで、味まで変わって(悪い方向へ)しまいそうですね。ご自慢のコーヒーを味わうなら、やっぱりコーヒーの琥珀色のカラーも含めて愛でることができる、純白のカップがふさわしいのかな。

音楽は、とりあえず、聖子ちゃんとか、あの頃の、いわゆる「ちょっと(ずっと)前の歌謡曲メドレー」が聴きたいです。

昔、神戸に旅をした帰り、海岸通りの、駅近くの喫茶店で、海を見ながら聴いた、たぶん有線放送のそれが、なつかしいです。

いかつい男性が接客してくれましたから、あれは駅内にある喫茶だったかも。

国鉄が民営化されてJRに変わり、国鉄マンもコーヒーを運んでいたのでしょうか。その少し不器用で緊張感のある雰囲気の中、懐かしい歌謡曲はおいしかった。

あれは旅、駅、海、音楽などにまつわる、良い思い出です。

でも、どうして、そんな味のあるエピソードがカットされてしまったのでしょうか。

これも、想像ですが、

なんでも「ちゃんぽん」にして解決してしまうことが主題の映画ですから、そこに個性を尊重するエピソードを挿入ことは定石ではなく、かえって焦点をボケさせてしまうからなのでしょうね。

さらに、観客の興味も、役者から道具(音楽)へと移ってしまいかねない、からかもしれませんね。

ここにも、映画と原作は別物だという事例がありました。だから、映画の解釈に原作を持ち出すことは良くないのですね。

追記Ⅲ ( 他人の神も ) 
2015/1/10 8:16 by さくらんぼ

何十年も前に、マーク・トウェインの箴言集を読みました。

内容は少ししか覚えていませんが、そのなかでも「真の不敬、それは他人の神を敬わぬこと」という言葉だけは、当時から忘れられませんでした。

日本人はクリスマスを祝い、神社に初詣に行き、お寺でお葬式をしたりを、ごく普通に行います。

もし、それ以外の宗教でも、なにか楽しい行事や、有益な行事があれば、そして、それを昔の日本人が知っていたら、それも自然と受け入れていたことでしょう。

「真の不敬、それは他人の神を敬わぬこと」。

それは、とても難しそうでいて、でも、案外、日本人には可能なのかもしれませんね。


(  最後までお読みいただき、ありがとうございました。

更新されたときは「今週までのパレット」でお知らせします。)


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