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#ネタバレ 映画「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」

「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」
2011年作品
おぼしき事言わぬは腹ふくるるわざ
2012/3/16 10:23 by さくらんぼ

( 引用している他の作品も含め、私のレビューはすべて「ネタバレ」のつもりでお読みください。 映画「僕の彼女を紹介します」にもふれています。)

映画「僕の彼女を紹介します」を思い出しました。あれは巡査である高慢なヒロインが誤りを犯し、そのため最愛の彼が死んでしまう話でした。彼女は心から後悔し、彼に謝罪したいのですが、死んでしまった彼には届きません。その罪の意識、自己嫌悪に、のたうちまわって苦しみ、果ては暴走する物語でした。

ところで、映画「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」も、ある意味、似た映画なのではないのでしょうか。主人公のオスカーは9.11で父を亡くしますが、そのお葬式で「棺おけが空っぽだ!」と不満をぶちまけます。そうです。遺体が見つからなかったのかもしれないし、大多数の人にとっては大切な人を失えば喪失感が支配しますので、その記号としても、空っぽの棺おけ、はふさわしい物なのです。

でもオスカーの本音はちょっと違っていましたね。映画のチラシ写真を見ると、オスカーが両手のひらで口を押さえているアップが載っています。オスカーの心には、父からの最期の電話を怯えて取れなかった事への後悔と自己嫌悪が、溢れんばかりに、嵐の様に渦巻いていたのです。それが飛び出そうだったから口を押さえているのでしょう。写真はその記号ですね。

映画「僕の彼女を紹介します」でも、映画「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」でも、そうですが、このような胸につかえている思いを吐露するには、ものすごく相手を選びます。絶対に反論などせずに(この時点で、日ごろから口うるさい母は除外されてしまいます)、神様、仏様のごとく慈愛を持って傾聴してくれる賢人(カウンセラーか、亡くなった父の如く人)でなければなりません。

勇気を出して吐露したのに批判などされたら、それこそ相手との関係が終わりになるどころではなく、吐露した自分もさらに深い心の傷を負いかねません。こんなとき、受けてはハグするだけでも良いと思いますが、吐露されれば、凡人はとかく自分も意見を言いがちです。そうすることが、相談を受けた者の誠意だと思ってしまいます。でも、慰めの言葉に含まれがちな不同意の臭いがすべてを台無しにしてしまうのです。それが本能的に分かったからこそ、オスカーはすぐには、しゃべらなかった。

先日、スピルバーグ監督がNHKテレビのインタビューで「自分にとって映画を作ることは癒やしである」みたいな意味のことを話していました。幼き日の悲しき想い出など、いろんな思いをモチーフとして映画化することで、監督自身が癒やされているのですね。

さて、オスカーは鍵穴を求めてさ迷いますが、そのガソリン(心的エネルギー)になったのは、この溢れる思いなのです。どうしても、じっとしてはいられなかった。じっとしていたら心が壊れかねなかったのです。

そして、鍵穴にたどり着くまでの道中、何回も、何回も、9.11の悲しみを人々と分かち合い、それも彼の心を慰める薬になったのでした。

この、ある意味、巡礼行為は、オスカーの父が優しかったからこそ出来たのです。もしもダメだしばかりする父だったら、オスカーは自信を失い、世界は誰も自分など愛してはくれないと思い込み、巡礼行為は出来なかったはずです。その場合のエネルギーの行き先を思うと、一抹の恐れさえ感じます。そうではなくて良かった。

このオスカーの終着駅に待っていたのは、思いの本懐です。鍵は合致する鍵穴に入って初めて本懐を遂げます。鍵だけではなく鍵穴も遂げるのです。オスカーも、相手の男も、そろって本懐を遂げました。それにオスカーはまだ気づいていなかった。

そして映画の中心となる9.11の話です。言うまでも無く、これは許されざる重大犯罪、テロ行為ですが、多分、突入したかの国の若者たちも、胸に閉じ込めてはおけないほどの思いを告げるために飛行機で行なった犯行なのでしょう。もちろん彼らの犯行に理解を示した映画なのではありますまい。そうではなくて、人間というものは、皆この様な「業」があるのだと、それを語るモチーフの一片として登場させたのだと思います。ですから、○ヶ国協議などという国際舞台の会議は、結論がすぐに出なくとも、続けることに大きな意味があるのだと思います。

上手に作られた映画でしたが、なぜか泣けませんでした。主人公のオスカーが本懐を遂げた、ある意味ハッピー・エンドだからでしょうか。分かりません。それに比べて私たちは、もしもピアノが弾けたなら♪ではないですが、ピアノが弾けず、心も半開き♪の人が多いと思います。すべての人の、半開きの心が、平和的に大きく開く時が来ますように。

そして3.11の被害に遭われた多くの方々の、なぜ自分だけ生き残ってしまったのか、なぜ目の前で流されていくあの人を救えなかったのか、など、心の奥底にしまい込んである悲しき塊に、一日も早く癒やしの機会が訪れることをお祈りいたします

★★★★

追記 ( じっとしていられないから ) 
2012/3/18 7:54 by さくらんぼ

オスカーの父はツイン・タワーで足止めされて、電話をあちこちに架けまくりましたね。あの寡黙な父が話しをしたくて暴走したのです。その、ただならぬ様子にも、オスカーは動物的直感で異常を感じ、怯えたのでした。

さらに、オスカーが密かに巡礼を始めた事を、夫の死で抜け殻の様になっていた母が気づきました。そして、心配が膨らんで、じっとしていられなくて、オスカーに内緒で先回りをし、安全確認を兼ねた挨拶回りをしました。

それから、巡礼先の人の中には、ごく少数ですが、協力せず、怒鳴って門前払いをした人がいました。でもオスカーが礼儀正しく送ったお礼状を読んで、涙を流して後悔していましたね。自分たちが門前払いをしたことを恥て、自己嫌悪になったのです。 映画「僕の彼女を紹介します」に出てきた高慢な女性巡査の様に。彼らは、その自己嫌悪のエネルギーを誰か別の人助けに役立てることでしょう。自分自身の癒やしのためにも必ず。

そして、オスカーの祖父母のことは映画では詳細には語られていません。小説と映画は必ずしもイコールではないので、ここは映画で考えてみました。祖父は息子の死でショックを受けている祖母を守りたいと思って間借り人になったのでしょう。彼は祖母をまだ愛していたのです。その、せき止められていた想いが9.11で噴出したのですね。日本で言う3.11後の「絆」現象の親戚みたいなものでしょうか。

その本心を知って驚いた祖母は、復縁の是非を一人静かに考えたくて家を出たのでしょう。あそこに居てはオスカーと祖父のダブル攻撃ですから落ち着かなかったのでしょうね。ラストに出てくるカゴらしきものを廊下で夫に持たせるシーンは、しみじみとして良いです。復縁を受け入れるサインでした。

この様に、それぞれの人も、オスカーと同じく、じっとしていられなくて行動することになったのですね。同じモチーフが語られていたのでしょう。ただオスカー自身の巡礼行動は、平均的な少年としては、いささか稀有な感も否めないので、その言い訳と言いますか、補完するために、特殊な人であると設定されていたのでしょう。

追記Ⅱ ( 一葉落ちて天下の秋を知る ) 
2012/3/19 22:36 by さくらんぼ

この映画からは、さらにこの様なメッセージを感じました。もしかしたら、これが監督がもっとも映画で語りたかった事なのかもしれません。

オスカーは、新聞の切り抜きに父がマーキングしたブラックという人物を探しました。しかし、父が本当にマーキングしたのは、ブラックの真裏に載っていた電話番号だったことが後に分かります。これは、物事で一面的な見方をしてはいけない、という象徴的かつ教訓的なエピソードなのでしょう。

同様なモチーフは他にも出てきます。映画の冒頭で、父とオスカーが夢中になっていた、いわゆる探検ゲームです。オスカーが、たくさんの人と話しをし、たくさんの物を調査し、その僅かな痕跡から、目に見えない、さらに大きなものを発見するゲームです。

これなど、わずかな表面情報から、裏面までを読み取る訓練ですね。「一葉落ちて天下の秋を知る」とか申します。確かに、その様な鋭い感性が必要なこともあります。ツインタワーから連想するならば「株」で勝つためにもそれは必要でしょうし、国難を避けるために世界情勢を読むにも必要なことでしょう。

他にも、オスカーが一人で巡礼したとばかり思っていたら、実は、母が先回りして手配をしていたという、びっくりエピソードも、裏面の話としては同様なものです。

さらに、オスカーが最後にたどり着いた鍵穴の持ち主です。あのオフィースに入ろうとした時、オスカーは「日曜の夜だから誰もいない」と言いますが、同行者は「日本は違うでしょ」と言います。今の世は地球の裏側の常識も考えて行動する必要があるのでした。まさに、これなど冒頭の探検ゲームの成果につながる話です。

映画「ヒックとドラゴン」でもそうですが、9.11を教訓として、米国が二度と同じ悲劇を繰り返さないために必要な、これから世界を渡るヒントを語っていたのかもしれません。

さて、父がタワーから落下する悲劇のシーンが映画の前後に挿入されます。ご丁寧に途中には写真まで。あの執拗さは、なぜだろうと思っていたのです。私が監督なら趣味に合わないのでカットしたでしょう。でも「父=イエス」の意味だとするなら理解できます。優しい父が、理不尽なまでに悲劇的な、あの様な最後を遂げることは、イエスの十字架を思い出せば理解できるのです。だから、あえて映像化されているのでしょう。

ひるがえって日本です。3.11の悲劇から一年。東北の悲劇をわが事の様に忘れず、日本もそれを生かしていけることを願いたいものです。

追記Ⅲ ( ローマ法王 ) 
2012/3/21 9:59 by さくらんぼ

9.11の被害者をキリストにたとえる見方は、いささか唐突ではないかと思われる方もいるかもしれません。しかし、3.11の被災者についてのローマ法王の話を聞けば理解できるのではないでしょうか。それは.2011.4.23 朝日新聞 夕刊に掲載されておりますので、それから一部を抜粋してご紹介します。

『 ローマ法王ベネディクト16世が22日、イタリア国営テレビRAIの番組で、東日本大震災を経験した日本在住の少女の「どうして日本の子どもは怖くて悲しい思いをしなければならないの」との質問に答えた。 これに対し、法王は「私も自問しており、答えはないかもしれない。(十字架にかけられた)キリストも無実の苦しみを味わっており、神は常にあなたのそばにいる」と答えた』。

どうでしょうか。もちろん法王が9.11の被害者についても同様にキリストになぞらえた発言をされたかどうかは確認していません。しかし、自然災害である3.11の被災者さえも、法王はキリストになぞらえて考えておられるならば、人災(犯罪)である9.11は、なおのこと、同様に考えておられても不思議ではありません。あるいは映画監督が忖度して、そのように解釈した映画を製作したとしても不思議ではないと思うのです。だからキリスト教らしく、敵を憎む物語ではないのです。

そう思って見ると、映画「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い 」のチラシにある、父がオスカーを背負った写真、あれは父に甘えているオスカーの写真ではなくて、十字架を背負ったキリストにも見えるのです。父が死んだことで弟子(オスカー)に与えられた教義(探検ゲーム)は成就されます。そして沢山の信者(訪問先の人々)も開拓されたのです。

そしてキリストであるからには復活しなければなりません。映画のラストにブランコの裏側から父のメッセージが出てきました。もう会えないと思っていた父が、あそこで復活したかのごとく語りかけてきたのでした。



(  最後までお読みいただき、ありがとうございました。

更新されたときは「今週までのパレット」でお知らせします。)


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