#ネタバレ 映画「ノクターナル・アニマルズ」
「ノクターナル・アニマルズ」
2016年作品
君の想い出
2017/11/6 22:40 by さくらんぼ
( 引用している他の作品も含め、私のレビューはすべて「ネタバレ」のつもりでお読みください。 )
映画館の正面には、地元の人なら誰でも知ってる老舗の寿司屋さんがあります。お値打ちランチもやっていて評判も上々。
その入口のところに街路樹が一本あって、まるでお店のために植えられたみたいに、いつも愛敬をふりまいていました。
私は上映を待つ間、いつも映画館の前に立ち、その寿司屋さんのカラフルなショーケースと、街路樹の木漏れ日を楽しんでいました。こうして、いつの間にか友だちに。
今、その寿司屋さんが全面改築中なのです。だから街路樹が一本、「留守番を任された番犬」みたいに立っていました。
ふと脳裏をよぎりました。「この樹も切られるのか」。
でも、「街路樹だし、切らなくても工事できるよね」。
そんな会話を樹と交わしていたら上映時間になりました。
「またね」。
2時間後、映画を観終わって表に出て、すぐ目に飛びこんできたのは「切断されて、丸い木肌を見せている、あの街路樹」でした。
「おまえ…」。
私は呆然としました。
そうでした。さきほど、地上1mほどの幹の周りに、白い紐が結んでありました。あれは「切断の目印」だったのでしょう。
H.D.ソローの「森の生活」には、たしか「森の生活は孤独ではなかった」と書いてありました。私は動物だけでなく、植物との交信の可能性も信じたいと思います。同じ生命体であり、情報を伝達する「気」をまとっているからです。私も公園の樹々に囲まれている時、孤独ではありません。
2時間前の樹は、己の最後を悟っていたのでしょうか。私と最後のひと時を交信したのでしょうか。
★★★★
追記 ( 「ピアノトリオ」 )
2017/11/7 9:00 by さくらんぼ
この映画は、ある意味JAZZの「ピアノトリオ」のようなものかもしれません。
「劇中の小説に描かれた衝撃的な事件」がピアノの主旋律です。映画の中で一番目立ち、観客を眠らせません。
「静かなスーザンの私生活」がウッドベースです。地味なストーリーですが、JAZZマニアになると、そのウッドベースの味わいに萌える人もいるのです。
そして「スーザンが時折見せる異常」、これがドラムスでしょう。自ら「私は眠らない」と豪語するスーザンは、多分精神を病みかけている。
この「捻じれた三本の糸の総体」がこの映画「ノクターナル・アニマルズ」なのかもしれません。
追記Ⅱ ( 絵空事ではない話 )
2017/11/7 9:15 by さくらんぼ
>「劇中の小説に描かれた衝撃的な事件」がピアノの主旋律です。映画の中で一番目立ち、観客を眠らせません。(追記より)
40年ほど前、私がクルマの免許を取りたての頃は、地元に多い「幅が50mもありそうな大きな交差点」を通過するのが苦手でした。
進入直前の信号が「黄色」の時、「止まるか、進むか」の決断に悩むからです。たとえば幅10mの交差点とでは判断が違ってきます。その瞬時の見極めが、経験不足のせいか苦手でした。
これは、そんな時代の話です。
ある日私が、大きな交差点で、右折しようして待っていると、「向かいから来た直進車が、ヘッドライトを一回パッシングさせて通過した」のです。
私は「大きな交差点を、安全に通過できる、紳士的な良いマナーだ!」と感激しました。そして、たびたびマネるようになったのです。
そんなある日、いつものようにパッシングして、大きな交差点を通過後、そのまま数分間走り、別の交差点で停止した時のことです。
ぼんやりと横断歩道の人たちを眺めていたら、後ろのタクシー運転手が降りてきて、私のクルマの窓を叩き、「俺は少しも動かんかっただろ~ 何でパッシングなんかしたんだ!」と怒鳴ってきたのです。
どうやら彼は、「さっきの交差点で、右折の信号待ちをしていた」ようです。私が「通過します」の意味で一回パッシングしたのに腹を立て、Uターンしてまで、追いかけてきたようでした。
私は「あなたの誤解です。パッシングは動かない車にも行っています。大きな交差点での、私の流儀です。悪気はありません」などとクルマから降りて言うよりも、ただ謝罪した方が話が早いなと思い、クルマから出ないで、窓だけ半分開けて「すみません」と頭を下げました。そうしたら彼は帰って行きました。
あれ以来パッシングは止めました。今ネットで見ると同じパッシングでも関東と関西では意味が違うようですし(当時はネットも無かった)、時には必要なテクニックかもしれませんが、あまりやらない方が賢明だと思いました。
私に非が無いとは言いません。いや、私の勉強不足によるところが多いのでしょう。しかし…タクシー運転手さんに追いかけられ、怒鳴られるとは夢にも思いませんでした。
こんな経験があるので、「見知らぬクルマに追いかけられる映画のエピソード」は、絵空事としては観ていられませんでした。
追記Ⅲ ( 病が行いを変えることがある )
2017/11/7 10:06 by さくらんぼ
>そして「スーザンが時折見せる異常」、これがドラムスでしょう。自ら「私は眠らない」と豪語するスーザンは、多分精神を病みかけている。(追記より)
映画の冒頭、いきなり「お相撲さんのような肥満女性たちが、ヌードで踊るシーン」が出てきて、(正直なところ)唖然とさせられます。
でも人種差別はいけませんし、障害者差別も、LGBT差別もいけません。同様に美醜や体重で人を差別してもいけません。そもそも肥満は醜いのでしょうか。そんな見識ある現代人は、あのヌードを冷静に、あるいは余裕の微笑を持って鑑賞しなければなりません。あれは芸術の一つなのです。
若い芸術家は、従来は美と呼ばれなかったものの中に、次々と新しい美を発見していきます。たとえば北野監督は時代劇の中にタップダンスを入れ成功を収めました。でも、もし半世紀前なら「狂人」扱いされたかもしれない。
しかし映画「ノクターナル・アニマルズ」のヒロイン・スーザンは、本当に精神を病んでいる気配があるのです。すると「肥満のヌードダンス」は、小説「ドグラ・マグラ」の冒頭に出てくる、患者の作った作品と同じだった可能性があります。
しかし同じものを作っても、正気のアーティストの作品ならば前衛芸術として評価の対象になるのです。いったい芸術とは何なのか、よく分からなくなります。
少なくとも「病が行いを変えることがある」のです。これが映画の主題かもしれません。あの劇中の事件、担当刑事は肺癌で余命一年だそうです。だから司法が釈放した犯罪者を自らの手で仕留めようとしました。まさにそう言う事なのです。
追記Ⅳ ( 彼が来ない )
2017/11/7 10:13 by さくらんぼ
>そして「スーザンが時折見せる異常」、これがドラムスでしょう。自ら「私は眠らない」と豪語するスーザンは、多分精神を病みかけている。(追記より)
もし冒頭の、「肥満女性たちが、ヌードで踊るシーン」が精神を病んでいる記号だとしたら、
映画のラスト、彼とレストランで待ち合わせをしたのに、彼が来ない哀れなシーンは、約束自体が彼女の妄想だったのかもしれないのです。
追記Ⅴ ( 早朝の困惑 )
2017/11/7 10:22 by さくらんぼ
今朝2017.11.7のNHK・AMラジオ、6時過ぎにこんな話が流れました。
リスナーさんからのメール、「先ほどかかった音楽の名前は〇〇ですか」。
アナウンサーの言葉、「その通りです。でも…メールを頂いたのは、音楽をかける前でした」。
追記Ⅵ ( お昼の困惑 )
2017/11/7 12:18 by さくらんぼ
先ほど、2017.11.7NHK・FMラジオ、お昼のニュースの話。
アナウンサー、「先ほど『被告に死刑が言い渡された』と言いましたが、『放送された時点では、死刑の主文は言い渡されていません』でした」。
( 最後までお読みいただき、ありがとうございました。
更新されたときは「今週までのパレット」でお知らせします。)
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