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ネタバレ 映画「ミリオンダラー・ベイビー」
「ミリオンダラー・ベイビー」
2004年作品
主(あるじ)の不在
2005/6/12 9:10 by 未登録ユーザ さくらんぼ
( 引用している他の作品も含め、私のレビューはすべて「ネタバレ」のつもりでお読みください。)
フランキーはマギーに言います。「稼いだら家を買え」と。マギーはその通りに家を買いましたが、自分のためにではなく親たちのためでした。その家では、家具の無いガランとした部屋が映り、親が不満を漏らしますが、本当に必要なのは主(あるじ)だったのです。
あの家は主(名義人・マギー)不在のまま親たちが暮らしていましたが、マギーが寝たきりになったと知ると、やってきて自分たちに名義変更する事を迫りました。しかしマギーは拒否します。とうとう主はあの家で暮らさないままとなりました。
思えば、救いを求めて長年にわたりフランキーが通い詰めた教会の神父さえも「神は忘れろ」と言い放ち、フランキーを見捨てました。なんと教会にも主はいませんでした。
ボクシングジムも家の暗喩でしょう。リングの自分コーナーも家なのでしょう。外で戦い傷ついた家族が帰ってきたら優しく迎え、傷を癒してやるのが主の役目です。
映画の終わり、主のフランキーが去り、ガランと寂しくなったジムが映りました。フランキーは美味いパイを食べに行っていました。最後にもう一度マギーとの想い出に浸るために。そしてパイの甘みで心を慰めてもらいに。それはパイの上手な店の主に慰めてもらうことでもあるのです。人はみな主を求めてさまようのでした。
追記
2005/7/4 21:32 by 未登録ユーザさくらんぼ
モーガン・フリーマン演じる雑用係スクラップは大変重要な脇役でした。フランキーがマギーの事について神父から見捨てられ苦しんでいる時に、マギーへの対処法のヒントをスラリ示唆したのもスクラップです。
それだけではありません。フランキーが病院でマギーに最後の愛情を注いだ時に、陰からその一部始終を見とどけていたのもスクラップでした。スクラップがどこに居たのかも分からぬ怪しい雰囲気の映像は、秘密を覗いたような感覚でした。
秘密。監督がスクラップに込めた意味とは一体なんだったのでしょうか。
私は「聖霊」だったのではないかと思います。主なき世界に降臨した聖霊です。そして彼は逃げた神父の代理を勤めました。
そうするとスクラップが靴を脱いでいたエピソードが理解できます。聖霊には本来靴など要りません。また高価でも香りの良い洗剤にこだわった訳が理解できる様な気がします。あれは香油を暗示していたのかもしれません。
聖霊が神の意思で動くとしたら、聖霊に導かれたフランキーのした行為は、神の前で正しい事となります。この映画は不幸な物語であるとの体裁をとっていますが、意外とそうでは無かったのかもしれませんね。
追記Ⅱ(主(あるじ)の不在)
2005/7/6 6:15 by 未登録ユーザさくらんぼ
本文の補足説明をします。
私は「主(あるじ)の不在」というタイトルをつけました。あえて主を、人間くさい雰囲気の(あるじ)と呼び、神を呼ぶ(しゅ)と区別したところに「神は存在するかもしれないが、人間の中にリーダーとなるべき存在が希薄になっている」との意味を込めました。
神父は無難な回答しかせず、逃げるように立ち去りました。この映画の中で逃げた男があったとしたら、フランキーではなく神父です。神父は一度はマギーのもとへ行き心の苦しみを癒す事を試みるべきでした。
やがてスクラップに一瞬だけ聖霊的なものが宿ります。その一瞬だけスクラップは神がかります。それに感化かされてフランキーは行動に出るわけです。
これが本文の意味ですが、映画解釈の正解だとは、他の文章同様に思っておりませんので、皆様ご自由に解釈なさってください。
追記Ⅲ(主(あるじ)の不在②)
2005/7/6 7:34 by 未登録ユーザさくらんぼ
それから「主(あるじ)の不在」というタイトルにはグレーな雰囲気もあることも事実です。これは、この映画の「神も仏もあるものか」という言葉を思い出すようなグレーな雰囲気を生かすべく考えたものです。
話は変わりますが、「安楽死」「尊厳死」などという言葉があります。それがこの映画のテーマかどうかは別として、監督も年齢から自分の最後の時をどう迎えるかが気になり始めていると思います。その気持の片鱗がこの映画から覗けたような気がしました。
追記Ⅳ
2005/7/7 5:42 by 未登録ユーザさくらんぼ
フランキーが注射(最後の愛情)をそそいだ時、スクラップが、どこか分からぬ暗闇から顔を覗かせて、二人を見つめていたシーンの話に、少し付け加えます。
あの時のスクラップは「安楽死を企んだ結果を見届けに来た」ような雰囲気でした。しかも、暗闇から顔を覗かせていたので、悪魔が宿っていた様にも見えます。
あのシーンは外見(つまり人間)として観たスクラップの描写だと思いました。安楽死(殺人)をそそのかすのは人間界の常識では悪魔の様なものですから、あえてあの様な描写にしてあると思いました。
しかし、私はあの時スクラップの内面に聖霊的なものが宿っていたと考えます。そうすると「神は与え、そして奪う存在です」から、人間には禁じられていても、神のした行為なので、安楽死(救済)は正しい事となります。
ここに、多くのものを超越した、監督の死(最後の時の迎え方)に対する考え方(願望)が見て取れるような気がしました。
また、その後のフランキーの行方についても、同様に神の手中にあるはずだと思います。
的外れなのかもしれません。でも、色々考えさせられる映画であったことは確かですね。
追記Ⅴ( 主(あるじ)の不在③)
2005/7/7 6:41 by 未登録ユーザさくらんぼ
余談ですが、神が人の命を奪う映画には名作「汚れなき悪戯」がありました。参考になりますかどうか分かりませんが、ふと思い出しましたので。
追記Ⅵ
2005/7/8 17:49 by 未登録ユーザさくらんぼ
私はマギーの最後を「安楽死」と呼びましたが、はたして、そうだったのだろうかと思いなおしました。
法律的な事は知りませんが、普通「安楽死」と言うのは「植物人間になってしまい、本人と意思疎通がまったく不可能な上、医学的に回復の見込みがまったくない場合に、生命維持装置を外す」様なことを言うのだと思います。
ところがマギーの事例は、本人は意識がハッキリしており、頭も至って聡明です。親族とベッドの上で、知と情の絡む、難しい財産問題を、アッサリと一人で処理するほどでした。
そのマギーがハッキリと「自殺の希望を表明」し、現実に「自殺未遂」まで起こしました。
そのマギーに対してフランキーが手を貸したのです。
マギーは薬物による安らかな最後であり、「安楽な死」でもありますが、その本質は「自殺」と「自殺ほう助」だったのかも思いなおしました。
この映画のラストで、フランキーの自殺の有無が話題になりましたが、その解釈を待つまでも無く、マギーによって真正面から自殺が描かれていたのでした。
監督は敬虔なクリスチャンとか聞きました。しかしダーティー・ハリーの血統を持つのか、宗教上の既存の解釈について疑問を投げかけていたのかもしれません。「死」は年齢的に最後の時が近づいた監督らしい一番の関心事ですから。
そしてこの映画は、満足のいく回答を求めての直訴、「神への公開質問状」とも観えたのでした。
追記Ⅶ
2005/7/9 5:09 by 未登録ユーザさくらんぼ
愛する神について、神父に執拗に質問するフランキー。愛する娘に繰り返し手紙を出すフランキー。
しかし、神父からは満足な回答は聞けず、娘への手紙は返却されました。
私はこの2つのエピソードは同じモチーフを表現していると思います。たとえば「問いかけ・未回答」とでもいう様な。
そして全編に流れるスクラップらしい語り。
この映画は一枚の「手紙」であったのかもしれません。表面的にはフランキーが娘に宛てた。深層的には監督が神に宛てた。
追記Ⅷ
2005/7/9 6:13 by 未登録ユーザさくらんぼ
マギーが犬の話をしました。後ろ足が悪くて、前足だけで這いずる様に動き回っていたという犬です。ある日父親は犬を殺すのです。たぶん不憫だと思ったのでしょう。
やがてマギーも足を切断して不自由な体になり、犬の例を挙げてフランキーに死にたがります。
映画は犬とマギーの例を重ねていますが、自殺の意思確認が出来ない犬と、明確に意思表明しているマギーとはまったく事例が違うと思いました。
もしも映画の様に同一視すると、それは殺される側の気持ではなく、殺す側の気持を優先した事になります。
そして控えめな表現ながら、被害者であるスクラップの方が加害者であるフランキー苦しみを気遣うシーンが有りました。
また、マギーが怪我をしたときも、フランキーがスクラップに向かって「お前のせいだ!」との言葉をは吐きました。しかしスクラップは反論しませんでした。スクラップは性格が温厚なのでしょうが、自分のせいだと苦しむより、他人のせいにした方がフランキーにとっては楽な事を知っていたからでしょう。あの時のフランキーは精神的に追い詰められ限界だったのです。
もしかしたら、マギーが自殺したいと言った気持ちの何割かは、被害者である自分が生き続ける事により、加害者であるフランキーが苦しみ続けるのを避けたいという気持もあったのかもしれません。
マギーが見舞いに来たスクラップに「フランキーに詫びたい」気持を語ると、スクラップは「それはできない」と切り捨てました。マギーが加害者の苦しみを悟る重要なシーンだと思いました。
( 文中の「被害者」「加害者」という表現は意図的なものです。)
追記Ⅸ
2005/7/9 8:15 by 未登録ユーザさくらんぼ
マギーは被害者で、フランキーは加害者だとすると、スクラップ被害者、加害者の双方の気持が良く理解できる高い視点の存在として描かれています。
スクラップがフランキーにぶっきら棒な態度をとることが多いのは、そうすることで自分を嫌わせて、フランキーが密に抱えている加害者としての苦しみを、少しでも和らげようとする優しさだったのかもしれません。
そのフランキーがさらにマギーの苦しみまで抱え込んだのです。スクラップはフランキーの苦しみが、もはや限界である事を知りました。
一方マギーの現在の気持も、未来の人生の味わいも、かつて似た境遇をたどったスクラップには我が事の様に見通せました。スクラップは事故から何年も生きていますが、セリフによれば「毎日死んでいる」ほどに、生き甲斐が無かったからです。
そんなある日、フランキーが教会へ行った事を知ったスクラップは、もはや限界だと悟りました。そして注射を鞄に入れたところを見つけ、確信を持ってフランキーの背中を押したのです。
高い視点から見たスクラップにとって、それが正解だと思われたのでした。
やがて計画が実行されたのを確かめたスクラップはジムに戻ります。マギーの苦しみをフランキーから取り除ければ、フランキーは再びもとの精神状態に戻るはずです。そうすればジムに帰ってくるはずだと考えました。スクラップは、これでマギーとフランキーの双方が救済できたと思ったのでした。
追記Ⅹ ( 神に祝福されたマギー )
2011/3/4 11:22 by さくらんぼ
キリスト教において自殺は禁じられているようです。でも、天使の導きで逝ったのなら、それは神の御意思であり、人間が勝手に行う、罪にあたる自殺ではありません。マギーは神から祝福されて召されたのです。
想い出すのは映画「汚れなき悪戯」です。教会の屋根裏の物置に、誇りまみれにされ、放置されていたキリスト像とは何を意味していたのでしょう。なぜ神父さんたちまでが驚愕する必要があるのでしょう。なぜ健康な子どもが、あの様なラストを迎えたのでしょう。
別の映画のスレッドでも書きましたが、終末期医療の進んだ現在、その医療をどの段階まで受け入れるのか否か、患者や、家族は、病院で苦悩の選択を迫られることがあります。その時にうろたえない為にも「ミリオンダラー・ベイビー」を観ておくことは有意義なことだと思いました。
クリントの「主(あるじ)の不在」的思想は、彼の最新作・映画「ヒアアフター」にも流れていて、苦悩の霊能力者も、少年も、もう教会の門さえ叩かないし、それどころか苦悩する人たち自身が、他人を癒やす仕事をする主(あるじ)となる姿が描かれていました。
そして、これは今に始まったことではありません。記念すべき映画「ダーティーハリー」からしてそうでした。主(あるじ)になるべき司法も行政もあてにならないと、下級の刑事であるハリー自身が神から権限を与えられたかのごとく44マグナムを振り回して成敗にのりだすのです。あの頃から基本的な思想は変わっていないのでした。
「ダーティーハリー」の延長線上にある「ミリオンダラー・ベイビー」。この映画は、ある意味、彼の究極的な思想も示されており傑作だと思います。
★★★★★
( 最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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