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#ネタバレ 映画「ツリー・オブ・ライフ」

「ツリー・オブ・ライフ」
2011年作品
バランスを学習しなければ歩けない
2011/8/19 10:24 by さくらんぼ

( 引用している他の作品も含め、私の映画レビューはすべて「ネタバレ」のつもりでお読みください。 )

少年が骨を蹴るシーンが出てきて、映画「2001年宇宙の旅」へのオマージュかもしれないと気づきました。

そう思って観ると、スター・チャイルドならぬ出産シーンも出てきますし、予告編を再観して気がつきましたが、並ぶ惑星や宇宙服の絵も、そしてモノリスが出てきそうな荒涼とした風景もありました。

そして内容も、映画「2001年宇宙の旅」同様に「進化」を描いたものでした。ただ映画「2001年宇宙の旅」では未来が舞台であり、進化の、ある意味最終形まで見せてくれるのに対して、映画「ツリー・オブ・ライフ」では過去から現在までが舞台です。

タイトルの「ツリー・オブ・ライフ」とは、つまるところ大阪万博で岡本太郎氏が太陽の塔の内部に展示した巨大な「生命の樹」と同じ意味なのでしょう。そこには原生生物から恐竜、そして人間までの進化の過程を表現したアートがありました。あの巨大で異様なインパクトは、実際に内部に潜り観た人でなければ分からないかもしれません。

映画「ツリー・オブ・ライフ」でも、前半を中心に「生命の樹」が、今度は、めくるめく動画として再現されています。大阪万博にタイムスリップしたと思って鑑賞するのが楽しむコツなのかもしれません。

そうこうしているうちに原生生物は人類まで進化し、期待していたホームドラマにたどり着きます。

ここでは父はダーウィンの進化論者の記号でしょう。弱肉強食、適者生存の人生観を持っています。

対する母はキリスト教の創造論者の記号でしょう。神を信じ、聖書にのっとって慎ましく生きようとしています。

そして子供のジャックは二つの価値観の中で揺れ動く米国人です。

父にとっては音楽家や実業家などの成功だけが価値あることなのです。しかたありません。これもまた人間としての進化論の1ページなのですから。太古の昔から繰り広げられた闘争が、人間の時代にも継続しているのです。

そして、その価値観を押し付けられた子供は苦しみますが、皮肉にも父は事業で失敗し、子供の方が成功するのですね。子供が持つ新しい価値観の方が現代にマッチしたのです。だから成功した。さらに母から受け継いだキリスト教の価値観もベストミックスしたのが勝因だったのでしょう。

映画「ツリー・オブ・ライフ」は、ダーウィンの進化論とキリスト教の創造論の衝突という永遠のテーマを語り、どちらかを一方を拒絶するのではなく、ベストミックスの道を探るということが主題なのではないかと思いました。

これは日本人には想像できないぐらい米国では大きなテーマらしいのです。よちよち歩きの子供が出てきました。バランスということを学習しないと自由には歩けないのです。

ブラッド・ピットの吸引力でしょうか、たくさんの観客が入っていましたが、少なくとも日本においては万人向けの作品ではありません。ただ映画「2001年宇宙の旅」の再来としてリアルタイムで劇場で観ておくことは、映画ファンにとって無意味なことではないでしょう。

★★★★

追記 ( 神はどこに ) 
2011/8/25 10:05 by さくらんぼ

この映画で恐竜は出てきましたが神は出てきたのでしょうか。私は出てきたと思います。

「雨の日の夜、水滴のついた車のフロント・ガラス越しに見た対向車のヘッドライトの様な、黄色く滲んだ光」が何度も出てきました。あれは神の記号なのだと思います。神は光に例えられる事が多いですから、奇をてらわず光そのもので表現したのだと思います。

それから、らせん状に渦巻くステンドグラス。ステンドグラスは教会の記号ですし、状況から、らせん状とはDNAを意味していたのかもしれません。

つまり監督の解釈では、ダーウィンの進化論(DNA)さえも神(ステンドグラス)の手中に在り、衝突すべき別個のものではないという主張なのかもしれません。人間の社会は下等生物の様に完全な弱肉強食にはなりません。無教養な人間でも仲間と分かち合う心を持っています。それこそが神の存在証明だと、どこかキリスト教関係の書物で読んだ記憶があります。

追記Ⅱ ( 恐竜時代から変わらぬこともある ) 
2011/8/25 10:12 by さくらんぼ

こどもの後頭部がハゲている描写ですが、映画の前半で川に倒れている恐竜の頭を他の恐竜が二回ほど踏むシーンがありました。二回というのがクドイですので意味のあるシーンです。それに呼応しているのが人間の時代に入ってからの子供のハゲている部分だと思います。

写真にも父がジャックの頭をヘッドロックしながら窓の外を眺めているシーンがありますし、ジャックもハゲの少年をヘッドロックしていました。恐竜も踏みつけながらキョロキョロあたりを伺っていましたね。

恐竜時代の生存競争と人間の生存競争を、頭というキーワードで表現していたのかもしれません。それを駄目押しするためにハゲの少年が出てきたのでしょう。

追記Ⅲ ( 映画「八日目の蝉」 ) 
2011/8/27 7:49 by さくらんぼ

映画「八日目の蝉」で、実母「恵津子」が、戻った娘「薫」から誘拐犯「希和子」のカラー消そうと鬼になって躾けていた時(在るがままの娘を否定することは、娘を愛さないことになります)、実父「丈博」はただ傍観しているだけでした。

もとはと言えば丈博の浮気が原因で起こったのですので、彼はとても恵津子に説教などできる立場ではないのですが、薫から見れば沈黙している丈博も、実質的に恵津子の共犯になるのです。そのため(誰も愛してくれない)と感じた薫は実父母の家庭では地獄を見ることになったのです。

映画「ツリー・オブ・ライフ」でも父母の立場が逆転しているだけで、つまり父が厳しすぎたのに、母が傍観していたので、子供にとっては父母が共犯になり、子供は地獄を見ることになるのです。

映画では母はキリスト教の創造論者の記号ですが、単に優しかったというだけで、空気の様な存在だったというだけで、積極的な役割はしなかったのです。

本当は神父の代役として積極的に父から子をかばい、それこそ父と口論してもかばい、父が厳しくしつけたのと同じ分量だけ、その毒を解毒させるための沢山の慰めを子に語らなければなりませんでした。それが愛というものです。しかし、この母親には子育ての愛が欠落していました。これが、この映画のシナリオ上の問題点だと思います。

そのためジャックは父からも母からも愛されずに育つことになるのです。本人は少なくとも母の愛を受けて育ったと誤解しているかもしれませんが、そこに本人が気づいていないことは重大で、知らぬうちに人生を誤ってしまうことにもなりかねないのです。

この様な家庭環境で育った子供は父の厳しすぎる躾のため、無意識のうちに人間としての自信を失い(それでも自分はニュートラルだと誤解している場合もあります。)、世間を受け入れず、往々として、電話に出たり営業などを必要とする外交的なビジネスマンの仕事は嫌いになります。でも独り静かに自分の心の中を探求し表現する内向的な芸術家になら向いているかもしれません。だから後半にある、高層ビルのオフィースでビジネスマンとして成功したらしいカット、は本当は妥当ではないのです。

また、愛を知らない人間であるため他人を愛することが不器用(それでも自分はニュートラルだと誤解している場合もあります。)になります。でも本当にニュートラルな人間から見れば冷淡な奴だと思われ、友人も恋人も、気がつくと去っていくことがあるのです。ここらあたりは孤独な影を持つショーン・ペンが好演していましたが。

そんな子供を親が「ダメな奴だ」と非難する・・・本当は親が原因なのに気づかずに、年老いてもまだ子供を責め続けていることさえあるのです。

映画「ツリー・オブ・ライフ」を家庭を描いたシリアスなホームドラマだとして観ると、ここの所がリアルではなく違和感が残りますので、やはり主題はそこではないのでしょう。

追記Ⅳ ( 寺子屋 ) 
2011/8/28 8:36 by さくらんぼ

映画「ツリー・オブ・ライフ」のキャッチ・コピーに「父さん、あの頃の僕はあなたが嫌いだった。」というものがあり、私は少々気になっていました。

あのセリフの後には何と続くのでしょうか。これは想像ですが、もしかしたら「父さん、今の僕は自分自身も嫌いになりました。」と続いたのかもしれません。

映画の終盤、ジャックが大人になり、ビジネスマンで成功し、高層ビルから窓の外を眺めながめています。(かつて恐竜が、父が、外を眺めていたシーンと符号しています。)でも、そこには幸福感ではなく寂寥感だけが漂っていました。

ジャックも社会へ出てビジネスマンの階段を上るうちに、あれほど嫌っていた父の生き様を模倣することになったのです。そうしなければ脱落したから、脱落しないようにするためには、そうせざるを得なかったのでしょう。弱肉強食の世界では。

もちろん母を模範として、いくらかは柔和政策をとっていたでしょうが、基本路線は嫌っていた父のものを継承せざるを得なかった。でも、そうやってたどり着いた先には幸せは待っていなかったのです。これは成功者たちの多くが感じる虚しさでもあるようです。きっと監督自身の内面でもあるのでしょう。

そこで母(キリスト教)の出番。空気の様な存在ではいけない。もっと前に出るべきだと監督は語っているのかもしれません。映画の中で母が空気の様な存在であったことが、もしも意図的なものだとしたら、そこには、こんな意味があったのかもしれません。

日本でも社会問題の解決には政治家ばかりに期待しがちですが、神社仏閣ももっと出番があるのではないかという意見も聞いたことがあります。そうすれば日本のビジネスマンの煩悩も、それ以外の悩める人たちの煩悩も、もっと癒やされるのかもしれません。「寺子屋」という言葉もあるように、かつてはお寺も学校の代わりとして社会貢献をしていたぐらいですから。

追記Ⅴ ( 水戸黄門 ) 
2011/8/28 22:16 by さくらんぼ

私の個人的なイメージでは、ベートーベンの「運命」は「凶報」のドアが後ろで開いた時の衝撃をモチーフにした音楽だと思います。

反対に、R・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」は「吉報」のドアが前で開いた時の音楽だと思います。ですから、こちらは未来を描いた作品である映画「2001年宇宙の旅」で使用されたのですね。

同様に、映画「ツリー・オブ・ライフ」の終わり近くに、主役の家族が「どこでもドア」の様なドアを開け、海岸の様な異次元の場所へ進んでいくシーンがありました。

そこでは、それまで空気の様な存在であった母が、今度は主役の様に中心となり、活き活きと振る舞い、子供や夫と戯れるように遊び、祝福するかのごとく、幻想的で楽園的なシーンが挿入されていました。

私はそれが何か分からなかったのですが、もしかしたら、ドアを開けて前進するというのは「未来の記号」であり、弱肉強食の世界で行き詰ってしまった父と子に、神の代理人である母が、満を持してその神聖を広げ、癒やし、祝福を与えるシーンではなかったのかと思うのです。

そこが海岸だったのは、進化論で太古の昔に海洋生物が上陸した場所だからでしょう。だから「もう一度、ここからやり直せば良いよ!」と、そんな励ましの意味だったのかもしれません。

思い起こせば映画の冒頭ナレーションには父ではなく母のものが多かった様な気がします。もしかしたら(キリスト教の)神聖な物語上、(神の代理人である)母は父よりも大きな主役であり、主役だからこそ、終盤になるまで実力を潜めていたのかもしれません。水戸黄門がラストに印籠を見せるように。

でも追記Ⅲでもお話ししたとおり、映画ではなくリアルな世界では、空気の様な母は子のためにならないこともあることは、取り返しのつかないことになりかねないことは事実なのです。監督は知ってか知らずか尋ねてみたいものですが、そういう意味では際どいシナリオでした。

追記Ⅵ ( いっぽんどっこの唄 )
2011/8/31 7:18 by さくらんぼ

映画「ツリー・オブ・ライフ」について、いろいろ想いをめぐらせて来ましたが、前述したとおり、家族のあり方、子の育て方について、シナリオ上に少し問題点を感じることが分かりました。

これは映画「八日目の蝉」を観ても分かるとおり、その問題点だけでも悲劇の映画が語られるほど重大な事なのです。しかし映画「ツリー・オブ・ライフ」は、それに目を閉じた上に成り立っているシナリオであるようです。

表面の映像がラフマニノフを聴いているが如く美しいだけに落胆は大きく感じました。水前寺清子の歌で「ぼろは着てても こころの錦 どんな花よりきれいだぜ、・・・」というのがありましたが、残念ながらその逆を行ってしまった印象です。このため映画の評価点を★★★★→★★に減点することにいたします。(今後新たなる発見があれば再評価もいたします。)

追記Ⅶ ( 「太陽の塔」、内部が一般公開の予定 ) 
2018/1/25 11:40 by さくらんぼ

大阪万博「太陽の塔」の内部が、平成30年3月19日から一般公開されるようです。

その話を聞いた時、私はこの作品を思いだしました。予習・復習として映画鑑賞しても面白いと思います。



( 最後までお読みいただき、ありがとうございました。 

更新されたときは「今週までのパレット」でお知らせします。)


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