深夜、ホテルにて
セキュリティという概念は、当たり前だが、外部からの侵入を防ぐために存在する。しかし、それと同時に、認証外の人間が出ることをも防ぐものであることを、真夜中のホテルで俺は思い知らされることとなった。無料のバーラウンジで焼酎が飲み放題な上に、二十四時までは温泉にも入り放題、というのが売りのホテルに泊まっていたのだが、夕飯を外の店で食べて、一杯だけ焼酎を飲んで部屋に戻ると、俺はそのまま眠ってしまった。エアコンの乾いた風でヒリヒリと乾燥する喉に目を覚ますと、焼酎バーも温泉も営業が終わってしまった真夜中になっていた。朝は6時から風呂には入れるらしいが、焼酎の飲み放題はあたりまえだが、夜だけのサービスだから、朝にはもう飲めない。湯上がりに飲もうと買っておいたビールは冷蔵庫にあるのだが、風呂にも入らずに冷えた体のまま、冷たいビールを飲む気にはなれなかった。バッグのなかに飲みかけのウイスキーのスキットルボトルがあったのだが、さっき飲んでしまい、すぐに空になってしまった。小腹も空いていて、駐車場に停めた車に行けばブランデーのボトルとちょっとした食べ物があるので、しばらく迷ったが、意を決して服を身につけて階下のロビーに降りてみた。もちろん鍵はかかっているだろうとは思ったが、流石にどこかからは出られるだろうと思い、降りてみたわけだが、どこからも外に出ることができなかった。大きく豪華な窓はすべて嵌め殺しで開閉はしないし、エントランスの自動ドアも、すこし試してみたが全く開かなかった。運転の長旅の疲れを癒すためにも、たんまり焼酎を飲んで、たっぷりと温泉に入ろうと思っていたのだが、どちらもままならなかった上、車に戻ることさえもできなかった。車に戻りたいと思ったことの理由に、図書館で借りて延滞したままの小説雑誌を取りたかった、というのもあった。その雑誌は、ある文芸誌が1400号を記念して発刊したもので、ジャンルを超えたさまざまな作家が小説を寄稿していた。北へ、というタイトルで石原慎太郎が書いた短編がそのなかにあったことを思い出し、急に読みたくなったのだ。思えば、石原慎太郎の作品をきちんと読んだことが、実はない。デビュー作の中に、勃起したペニスで障子を突き破るという描写があるということくらいは知っているし、文学史に残る作品ということでいつかは読もうと、その文庫も持ってはいるが、いまだ読んだことがなかった。ぱらぱらとページをめくる程度にではあるが、文芸誌か何かで彼の最近の作品の文章を読んだことはある。現代にありながら、やや古風な文体で、数十年前が舞台のストーリーの作品だったと記憶しているが、引き込まれるように読んでしまった、というふうにも別にならず、全ては読まなかった。政治家としての言動が切り取られ、ネット上でも賛否両論の意見が多く見られたが、個人としては、偉大な人だったと、いまでも思っている。数年前、ディーゼルエンジンのやや古い車両を仕事のために買い付けようとして、東京都のディーゼル規制の存在に悩まされたりしたときに、石原慎太郎が作った規制のせいだ、と車屋に聞かされたこともあったし、その規制のありかたを批判する声も多く、いい印象だけというわけではなかったが、いまでも動画などでは散見される歯に衣着せぬ物言いの様子などは見ているだけでも小気味がよく、人として、大人として、こういうふうにありたいものだと思ったりもしたものだった。スマホの時計は三時を示している。あと三時間もすれば外に行けるわけだが、半端に目覚めてしまった今この瞬間にこそ、その石原の短編を読みたいと思った。政治家としての印象の方が強い人も多いだろうが、作家としても評価されているその彼が晩年に書いた作品を、いまこそ、読んで、感じて、受け止めてみたいと、彼の訃報を聞いたこの夜に思った。訃報に合わせて、いろいろな記事がネット上に出ている。政治家時代の映像を含め、彼の来歴や功績を紹介する動画が多かったが、いろいろと見ていて思ったのは、とにかく、ユーモアのある人だな、ということだった。政治家としての会見などの切り出しの言葉が、どれも、型にはまらないユーモアのある言葉だったことが印象的だった。賛辞としてだが、むちゃくちゃな人だな、と思う部分も大きい。だが、文学者なんて、土台むちゃくちゃな人間がなるものなわけで、そのむちゃくちゃさが、真っ当で立派な人、という立場にありながら滲み出てくることに、妙な親近感を感じた。こんな日に限って、夜が長い。夜明けまではまだまだある。明日、来月、来年、十年後、俺はなにをして生きようか。石原慎太郎の訃報をうけて、いま、そんなことを考えている。