橋と、川と、街と、セイタカアワダチソウ
家の近所に空き地がある。わたしがいまのマンションに引っ越してきてもう三年位が経つが、わたしが引っ越してきたときには既に空き地になっていた。都心のど真ん中ではないにせよ、二十三区内のそこそこには人気のエリアにわたしの住んでいるマンションはあるので、家の近所に空き地があることに気が付いたときはちょっとだけ驚いた。建物を取り壊して、それから次にマンションを建てたりするまでの間に、一時的に空き地になっているというようなことは、ままあるだろうが、数年にわたって、誰にもなんにも使われずに土地が放置されていることは、エリアを考えるとそんなには多くないような気がする。昔の漫画なんかだと、子どもたちの遊び場として、土管が積み上げられた空き地が登場したりするが、いまどきは子供が自由に遊べる空き地というものは、ほとんどない。その空き地の入り口にも、鉄パイプで組まれた塀があって、ボロボロの覆いが紐で結び付けられていたが、ところどころが破けていて、いつも風に吹かれるとバタバタとはためいていた。空き地の中には草が激しく生い茂っている。わけのわからない背の高い草が沢山生えていたし、入り口の方には幹の直径が一五センチくらいはある背の高い木さえもが生えていた。スーパーまで歩いたりするときに前を通って、空き地の中をひょいと覗いてみると、実にいろんな種類の草が生えているのが見える。iPhoneのアプリで、植物の名前を写真を撮ると特定してくれるという無料で使えるアプリを最近知った。塀をくぐってこっそり中に入り込み、そのアプリを使って空き地の植物の名前を調べてみると、アカメガシワ、シロダモ、セイタカアワダチソウ、ハルジオン、シロバイ、ノゲシ、ドクダミ、ヌルデ、ビワ、ホテイチク、といった具合に、聞いたことがあったりなかったりする植物の名前をたくさん知ることができた。ビワは葉の形が特徴的だったのと、昔、子供の頃に住んでいた家の庭にビワの木があったので、すぐにわかった。腰くらいまで伸びた緑の草は、セイタカアワダチソウだった。セイタカアワダチソウ、という言葉をiPhoneの画面で見た時に、ふと、昔読んだ漫画のことを思い出した。川の近くにある都市に暮らす高校生たちのことを描いた有名な作品で、セイタカアワダチソウという言葉がその漫画のひとこま目にも登場する。作中の時代設定はバブルが崩壊してまだそうまもない九十年代で、言葉遣いとか生活スタイルが現代とはやや違う感じもするが、どこかヒリヒリとした心で日々を過ごす若者達の描写は、はじめて読んだとき、言葉では説明できない何かで、わたしの心に強く影響を与えたような気がした。家の近くのその空き地にセイタカアワダチソウが生えているということを知って、それから数日、その漫画のことを考えていた。単行本を探してみたが家の本棚には見当たらなくて、実家にはあるかもしれない気がしたが、それもすぐには見つかりそうにはなかったので、アマゾンで新しく注文した。マーケットプレイスからの配送だったので、到着までに数日が必要で、注文した日からの数日も、また心のどこかでその漫画について考えて過ごした。作中に、川に架かる大きな橋を主人公たちが渡るシーンが何度か登場する。アマゾンの古本屋から届いたすこしカビ臭いその単行本を読んだ夜、わたしはなんとなく橋を見る散歩にでかけた。家の近くにも大きな川が流れていて、そこに架かる橋が、漫画のなかの橋と少し似ているような気がしたからだ。作者は確か世田谷かどこかの都内に当時住んでいたというようなことをネットで読んだことがあるような気がするが、作品の中の舞台がどこなのかということは名言されていないし、作品に出てくる川や橋と、わたしの家の近所の川や橋が関係があるのかどうかはわからないが、とりあえず橋まで歩いてみようと思った。春が終わりを告げようとしている、というような気候の夜だった。河原に出て土手に登ってみると、そこは闇の世界だった。街灯は全く無く、対岸の都市と、土手の内側の住宅の明かり以外は光がない。ジョギングやウォーキングをしている人が多く、人の気配はするのだが、近くに来るまでははっきりと姿を見ることはほとんどできない。家を出た時に見た予報によれば今夜は雨は降らないらしいが、風がほんのりと湿り気を帯びている。春も終わろうとしているのにしばらく寒い日々が続いていて、ここ数日で急に暖かくなった。なんだか懐かしささえもある匂いの空気だった。土手のすぐ内側に建っているマンションの窓がテレビの明かりで光っている。明かりの消えた部屋で点滅するテレビの光が、なんだか心強い存在のように思える気がした。誰かがそこにいる。実際は居ないかも知れないし、テレビをつけたままシャワーを浴びていたり買い物に行っていたりするのかもしれないが、それでも、人の営みがそこにあるという気配、それがなんだか気持ちを安心させてくれるような気がした。わたしはテレビを観ないので、わたしの部屋には、テレビはない。フリースのパーカーを着てきて正解だったと思った。半袖で歩くにはまだ寒いが、サンダルで歩くのは平気。そんなような季節だった。素足にゴム草履を突っかけて歩くのが、わたしはけっこう好きだ。草叢から、虫の声がする。寒い季節には聞くことのできないその虫の音が、夏の訪れを予感させてくれるような気がした。対岸の高層マンション郡の明かりが煌めいている。土手の上からも少しだけ見える川面に、マンションたちのその明かりが映っていて、綺麗だった。時々、轟音がして、新幹線が橋を越えていく。新幹線の通る橋のあたりで土手の上の道が途絶えて、橋をくぐるためには土手の下の道へ降りなければならなかった。真っ暗でよく見えなかったが、草叢の切れ込みのようなところから人が出てきたので、それに倣ってわたしも降りてみた。橋の下はそれまでよりも更に暗くなって本当に真っ暗で、流石に少し不気味だった。上を見上げると、橋と橋の間から見える空が、あたりの暗さのせいで際立って明るく見えた。中学生のころに行ったキャンプ合宿で、夜ふかしして木が生い茂る森で見上げた、ぽっかりと穴が空いているみたいに見える明け方の空のようだった。ふと人の気配がして後ろを振り返ると、土手の上から、通り過ぎる新幹線をカメラに収めている人の姿が見えた。通り過ぎる新幹線の音は、遊園地でジェットコースターが通り過ぎるときの音みたいだったし、川の向こうにきらめくビルの明かりは観覧車のような配色だった。新幹線の橋をくぐると、目当ての橋が見えてきた。新幹線の橋は鉄道専用なので、人が歩いて渡ることはできない。車道と歩道が通るその大きな橋の袂のコンクリの傾斜には若者が三人座っていて、楽しそうになにかを話していた。紫のスウェットを着た男の子と、白いスウェットの女の子と、黄色いニットの女の子の三人だった。三人ともマスクをしていた。横を通り過ぎる時に彼らの話し声が聞こえたが、なんのことを話しているのかはまったくわからなかった。この場所に架かる橋としては二代目になるということをいつかネットで読んだ気がするが、まじまじと近くで見ると、なかなか立派な橋だった。確か、いまのこの橋に架け替えられたのは二十年くらい前で、その前の橋は片側一車線の八十年以上前に架けられた橋だったとネットの資料には書いてあった。この橋の近くをよく通りはするが、川の向こうに歩いて渡る用事がないので、歩いて渡った記憶は久しくない。ほとんど初めてのような気持ちで橋の中ほどまでを歩いてみた。景色を眺めていると、川の横から見るのと、川の上から見るのとではずいぶんと見え方が違うということに気が付く。さっきの若者三人の姿が小さく見えた。橋の上を通る車道を照らすオレンジの照明が、橋の鉄骨と対岸のビル郡の光の青さを際立たせていて綺麗だった。橋の手すりには内側に弧を描くようなくぼみがついていて、わたしはそこに凭れてしばらく川を眺めていた。大きな車が通ると、わずかに橋が揺れた。車の流れが途絶えて、わたしは車道を横断した。そこそこ大きな道路だし、橋の袂には交番もあるので、少しだけドキドキしたが、袂の横断歩道まで行くのが面倒で、車のいない車道をそそくさと足早に渡った。車が途絶えたときの橋は、とても静かだった。さっきまで見ていたのは海へと流れる方向で、今度の側は山へと向かう方だった。反対側と同じ造りの手すりに凭れて、わたしは、また川を眺めた。川面には月が映っていて、その光に照らされているおかげで、川の流れで水面が揺らいでいるのが見える。東横線の線路がその向こうに見えて、電車が通るたびに、車内の明かりが川面に映って、その瞬間だけわずかに景色が明るくなった。川面を眺めながら、わたしは莉莎子のことを思った。莉莎子と暮らし始めてもうすぐで半年くらいになる。まだ一緒に住んではいなかったが、わたしの部屋にたまに莉莎子が泊まるようになり始めたころのことも含めると、一緒にいた期間はもっと長い。偏見や抵抗は特にないが、わたし自身は自分はレズやバイではないと思っているし、莉莎子の気持ちをそのまま全て理解はできないが、でも一緒にいるのは嫌ではなかった。わたしたちはきのうはふたりで一緒に眠った。マンションにはそれぞれの部屋とベッドがあるが、たまに、わたしたちはひとつのベッドで、一緒に眠る。昨日は急に暑くなったので、わたしはほとんど下着のような格好で寝ていた。明かりを落とした部屋で布団に入ってiPhoneを触っていたら、髪は乾いているが身体にはタオルを巻いただけという格好で莉莎子がわたしの部屋に入ってきた。一緒に寝てもいい? と聞かれたので、いいよ、とわたしは答えた。少しかすれた莉莎子の声が耳に心地よく響く。なんとなく気分が落ち着かなかったり、寂しかったりすると、莉莎子はわたしと一緒に寝たくなるのだと、いつか話していた。わたしがレズやバイではないということは莉莎子も理解しているが、莉莎子にもわたしにも、いま他に彼氏や彼女はいない。莉莎子は裸の尻と背をわたしに見せながら、身体に巻いていたタオルをわたしの部屋の椅子の背にかけると、素っ裸でわたしの布団に潜り込んできた。わたしは諦めてiPhoneの画面を消して枕元の充電器に置いた。着たまま寝るの? と聞かれて、わたしは特になにも考えずにその言葉にすんなりと従って着ていたTシャツを脱いだ。ショーツはご丁寧にも莉莎子が布団に潜って脱がせてくれた。性的に莉莎子と絡みたいと、わたしは能動的に思いこそしないが、莉莎子に身体を触られることは嫌ではない。莉莎子のほうがわたしよりも胸も大きいし背も高くてスタイルがいい。後ろから抱きしめらるようにして莉莎子の腕が伸びてきて、背中に莉莎子の胸が触れた。ひんやりと冷たい莉莎子の指がわたしの胸や脇腹を撫でる。莉莎子の静かな呼吸の音が聞こえて、首筋に莉莎子の鼻が当たる。しばらく胸を触られているうちに身体が熱くなってきたような気がした。乳首が敏感になっているのがわかる。触れそうで触れないくらいの触り方で莉莎子の指がわたしの乳首に当たる。わたしは目を瞑って自分の身体を莉莎子に委ねた。莉莎子の指先がわたしの下腹部の毛を掻き分ける。莉莎子の指がそこに触れた時、わたしは既に充分に濡れていた。時間をかけて丁寧に触られるうちに、なんだか自分が満たされていくのを感じる気がした。飢えていたわけではないし、足りなかったわけでもない。それなのに、莉莎子の指はわたしのコップに水を注ぎ続けて、わたしのコップはやがて満ち、そして溢れて、わたしは絶頂を迎えた。わたしの液で濡れた自分の指をティッシュで拭いてから、莉莎子はわたしのことを前から抱きしめてくれた。わたしは荒くなっていた呼吸を落ち着かせるためにゆっくりと息をしながら、莉莎子の髪の匂いを嗅いだ。わたしがうとうとし始めると、莉莎子はもぞもぞと布団の中で身体をくねらせて、自分の指で自分を絶頂へと導いた。わたしがイったあと、莉莎子はいつもそうして隣でオナニーをする。いつか、そういうことが、つまり、わたしを満たすだけで、わたしが莉莎子を満たしてあげていないことが、嫌だとか寂しいとか思ったりしないのかを気になって聞いてみたが、全く不満には思わないし、わたしのことを満たせるということが単純に嬉しいことなのだと、莉莎子は言っていた。オナニーはね、その興奮を鎮めるためにしてるみたいな感じかな、だから気にしないで。そう莉莎子は話していた。人間として、それから友人として、莉莎子ときちんと向き合っているつもりではあるが、わたしは恋人として真剣に莉莎子と付き合っているつもりはないし、そのことを莉莎子もわかってくれてはいる。それで、わたしたちはなぜ一緒にいるのかということについて、わたしはたまに考えてしまう。この先、共にいても、結婚するわけでも子供ができるわけでもないのに、でも、わたしたちはこうして一緒にいる。それはたぶん、それが手段ではなくて、一緒にいることそのものがある種の目的だからなのだろうと思うが、それでも、いつまでわたしたちはこうしているのか、こうしていられるのか、やっぱり、ときどきふと考えてしまう。吹く風が少しだけ冷たくなってきた。電車はまだ変わらず走っている。わたしは橋の上を東京側に戻る方へと歩き、袂を通り過ぎて、さっきとは反対側の土手に降りた。土手の下には川面に面してフラットになっているちょっとしたスペースがある。そのすぐ脇を橋と交差して川沿いを走る道路が伸びていて、歩道の真下の壁際に十代くらいの女の子がふたり座って話していた。ふたりの間には白く光る何かがあって、通り過ぎざまに見ると、携帯のLEDライトの上にミネラルウォーターのボトルを置いてランタンのようにしているのだとわかった。LEDのライトをつけたままだとすぐに電池が減ってしまいそうで自分にはできない気がしたが、そういうことを気にしたりしないその子達の豪快さのようなものが、すこしうらやましく思えたような気もした。当たり前だが自分にも同じくらいの歳の頃があったことを思い出して、ほんのすこしだけ寂寥のようなものを感じた。あの漫画の登場人物たちもたぶん彼女たちと同じくらいの歳だったはずだ。持っているものとか、流行っているものとかは全く違うかもしれないが、この年頃特有のなにかみたいなものは、世代が変わっても本質的にはそう変わっていないような気がする。充分に川を眺めたので、わたしは家に帰ることにした。橋の下をくぐって、真っ暗な土手の道を進む。莉莎子はまだ起きているだろうか。わたしが散歩に出かけるとき、莉莎子は誰かと電話で話していた。もし莉莎子がまだ起きていたら、ふたりでキッチンでビールを飲んだりするのもいいかも知れない。それで、そのあとはきょうはそれぞれの部屋で寝るような気がなんとなくする。対岸のビルの明かりの手前には暗い川があり、その更に手前には草が生い茂っている。どんな草が生えているのかは、真っ暗なせいでまったくわからない。この河原の草叢にも、セイタカアワダチソウは生えているのだろうか。