晴海埠頭の客船ターミナル

 正月だから、という奇妙な理由で、東京湾に船で浮かんでいた。かつての東京の正月は、もっと静かだったような気がする。都内に残る人が少なかったせいか、道路も店もガラガラだったり、そもそもどこも営業していなかったりしたのだが、いつからか、正月とて都内の道路はそれなりに混んでいるし、お店も大行列だったりするようなことが増えたような気がする。六人も乗ればいっぱいになってしまうような小型のプレジャーボートで、若洲から海に出た。船長は妹で、ガソリンを入れるための携行缶を貸して欲しい、と言われて、持ってきたついでに船に乗せてもらうことになった。東京湾の真ん中、全方位が海で、すぐ後ろにはレインボーブリッジが見える。そして、前に見えるのが、晴海埠頭の客船ターミナルだ。正確に言えば、客船ターミナルだったところ、だ。二十一歳の頃だったと思う。旅に出る前日のことだった。どこで知り合ったのかはよく覚えていないが、名前も知らない女の子と待ち合わせて、晴海埠頭の公園に行った。いまでは見る影もなく変わり果ててしまったが、埠頭の先端にあったその公園は海に沿って長く広く伸びていて、接岸している船を目の前に見ることができた。昔の写真のデータを探せばなにかしらの当時の様子を写すものが出てくるような気はするが、枯れてしまって水の出ない噴水や、壁打ち専用のテニスコートがあり、それから、ちょっとした広場もあったりするような公園だった。公共交通機関で来る場合はマイナーな路線のバスでしか来られない、というアクセスの悪さも幸いしてか、休日の昼でも無い限りはほとんど誰もこない、そんな場所だった。なんでもない平日の夜ともなれば、当然のように人影はまばらで、ほとんど誰もいないその公園で、俺はその女の子と一緒にギターを弾いて、歌を歌った。たしか、斉藤和義とかブルーハーツの歌を歌ったような記憶がする。その女の子のハンドルネームはアラバマという名前だった。どこかのインターネットのコミュニティで知り合って、やりとりを重ねるうちに会ってみることになった、というような感じだった気がする。お互いに何かを期待していたのかどうかはよくわからないが、それ以上に親しくなることはなかったし、その一度を除いて、それ以来会っていない。こちらとしても、特に容姿が好みだとかそういうようなわけでもなかったし、音楽以外で共通の話題があったわけでもなかったこともあり、積極的に親しくなりたいとは特には思わなかったという記憶がある。その夜、俺は家出同然で旅に出ようとしてた。旅と言っても、正確に言えばただの免許の合宿で、普通自動二輪、いわゆる中免の合宿に旅立つ日だった。行き先は栃木の足利で、そうものすごく遠いわけでもなかったし、わざわざ前の日に出る必要もなかったのだが、高速の深夜割を使って節約したかったということもあり、夜のうちに出発することにしていた。実家の車に生活用品と教習用のヘルメットやギターを積み込んで、旅支度をして、どこかの駅でそのアラバマというハンドルネームの女の子を拾った。アラバマはたしか十九歳くらいで、俺よりもいくつか年下だった。当然未成年ということになるし、下手したら高校生だったかもしれない。いま俺は三十四歳になっていて、十九歳とかの年齢の女の子と会って二人で公園に行ったりするというようなことは、ここ数年はもうまったく経験していない。夜の埠頭公園は薄暗かった。電灯はあるが、古臭いままの姿形を残していて、点滅したり消えたりしているものもあった。枯れてしまって水の入っていない池のそばのベンチに腰掛けて、ふたりで歌っていたが、誰かが何かを言ってくるようなこともなかった。そのころの埠頭公園は、公園の一番奥の方に行くと、二階建ての東屋のようなものがあった。それは海に向かって建っていて、二方向の階段から上に上がることができた。当時、その東家にはおじさんが住み着いていて、ほとんど誰もこないのをいいことに、しっかりとその場所を占有していた。別の日の夕方にその公園に行った時、おじさんが夕焼けの中で文庫本を読んでいて、どういうわけか、その姿が、なんだか美しいもののように思えてしまったことがあった。おじさんは石原裕次郎を劣化させたような感じの容姿で、どういう経緯でここに住むようになったのかということが俺はすこしだけ気になった。それからしばらくして、公園の改修のためかなにかの理由で東屋のあたりの一帯が封鎖され、おじさんもそこから追い出されてしまった。その数年後、二十代の半ば頃になると、俺は壁打ちテニスに熱中するようになった。テニスの経験は小学生のときに少ししたことがある、という程度だったので、初めは十回続けるだけでも大変だったが、打って返ってきたものをまた打ち返す、という単調ながらも奥の深い作業に魅入られたのか、時間を見つけては壁打ちコートに通っていた時期があった。恋愛のことや将来のことで悩んでいたりする時に、真夜中だろうと雨上がりだろうと、俺は壁打ちに通った。東家を追い出されたおじさんは、テニスコートの脇の森の中に引っ越していた。変電機のフェンスや生えていた木を使い、角形のテントをうまいこと二棟建てて、そのなかで暮らしていた。テニスコートのすぐ横には公衆トイレもあったし、生活するには全く不便のない場所だったようだ。夜中に壁打ちをすると迷惑かもしれないと思い、遠慮しようかと思ったこともあったが、おじさんにしたって、家賃を払って住んでいるわけでもあるまいし、別にたまのことで文句を言われる筋合いはないような気もして、俺は真夜中でもかまわずに壁打ちをした。夏になり木が伸びて生い茂ると、街灯の灯りが遮られてしまい、コートが暗くなってしまう。暗くなると壁打ちがしにくくなるので、俺は折り畳みのノコギリを持参してフェンスによじ登って伸びた木を切り落としたこともあった。フェンスから降りるときに飛び出ていた枝に引っ掛けて着ていたTシャツが破けてしまったことも記憶にある。おじさんがひとり、勝手に住んでいることを除けば、深夜にもなるとまず誰も来ない、そんな公園だったので、俺はこの公園がすごく好きだった。おじさんは昼間には自転車で出かけたりすることもあって、留守にしていることもあったが、在宅時にはラジオを聞いている音が聞こえたりすることもあった。それからさらに数年が経って、公園はオリンピックの準備のために封鎖された。リニューアルしてオリンピック後にまた開放される、という話だったが、オリンピックが終わる頃には、埠頭全体が変わり果ててしまった。マンションのビルが立ち並び、道路はぴっちりと整備され、全く別の場所のようになってしまった。ネットに書かれていた情報によると、公園は一九七五年に開園したらしい。あの三角の屋根で目を引く巨大な客船ターミナルが建造されたり、いろいろと変化はあったはずだが、ここまで大きく変わってしまったのは、開園以来のことだろう。あのターミナルのビルも、もうすぐなくなることになっているらしい。公園だけに限らず、晴海一帯はどんどん整備開発され、明るく、綺麗にはなったかもしれないが、絶妙な哀愁を伴う、あの頃のような良さはまったくなくなってしまった。日が暮れるまで東京湾を船で走り、羽田沖からアクアラインの換気塔の風の塔や、空港を眺めてから、若洲に帰港した。若洲に着くとすっかり日が暮れていて、紫色の空が水面に映る様子が美しかった。寒い、東京の冬の、正月だった。

(2022年3月5日 13:31〜2023年1月15日 18:21)


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