【連載小説】雨がくれた時間 8.彼の理由
前回の話はこちら 第7章「あがる雨」
始めの話はこちら 第1章「思わぬ雨」
8 彼の理由
「そういえば、今までどうしてたの?」
渡されたままだった澤村の傘を閉じながら、なぜあの路地裏から出てきたのかが気になって聞いてみる。
私よりも早くお参りしてくれていたのだから、少なくとも正午前には七瀬家の菩提寺に着いていたはずだ。
その証拠に彼のデニムパンツの裾には、あまり濡れたあとがなかった。きっと寺を出たときもまだ雨は降っていなかったのだろう。なのに、こうして私の横を並んで歩いている。それが不思議だった。
返事がないので横を見上げると、私の質問の意味がわからなかったらしい澤村が困ったようにこちらを見つめていた。
「さっき、坂の下の路地裏から出てきたでしょ?」と、わかりやすく聞き直す。
すると澤村は、そういうことか、と納得したように頷きながら「あの路地裏沿いに旨いコーヒーを出す店があるんだよ」と言うと、たたまれた紺色の傘を私の手からそっと取った。
かわりに澤村が持ったままのビニール傘を受け取ろうと手を伸ばしたが、やんわりと彼の手がそれを制する。このまま持っていてくれるつもりなのだろう。そういうところが澤村らしく、ありがとうとだけ言って、その優しさに甘えた。
「そんなお店があるなんて知らなかった」
駅から寺へ向かうこの道は大きな住宅が建ち並び、店といえば私が傘を買ったコンビニくらいだった。寺の正門へ続く坂道にいたっては木々がうっそうと繁っていて店どころか民家すらない。だからあんな狭い路地裏に店があるなんて思いもよらなかった。
「昔ながらの喫茶店なんだけど、いい感じで落ち着くんだ」
「よく行くの?」
「ああ、墓参りのときはたいてい寄るかな。コーヒーだけじゃなくて飯も旨いんだよ」
その店のビーフカレーがとても美味しいらしく、お参りをしたあとに昼食をそこで摂ってから帰るのが澤村の“決まりごと”になっているらしい。
「本当はコーヒーとカレーがメインで、お参りはついでだったりして」
からかうように言った私の耳もとへ澤村は顔を寄せると「悟には内緒だぞ」と唇に右手の人差し指をあてながらニヤリとする。けれどすぐに「あいつには、そんなのとっくにバレてるか」と言って声をあげて笑い出した。
柔らかくてあたたかいものが全身を駆けめぐると同時に苦いものがこみ上げてくる。
いつ頃からだろう、澤村の笑顔を見るだけで心が浮き立つようになったのは。
彼の明るい笑い声が頭から離れなくなったのは。
ただの気心の知れた同僚で友人の一人に過ぎなかったはずの澤村が、かけがえのない人になっていく――そう気がついた頃、あの人の声はもう思い出せなくなっていた。
「あ、ごめん。なに?」
澤村が私に向かってなにかを問いかける声がして、我に返った。
「……いや、聞いてなかったのならいい」
「聞いてなかったわけじゃないの。ちょっとぼうっとしちゃって。疲れてるのかな……ほんとごめん」
「たいしたことじゃない。気にするな」と澤村は大きな手を左右に振る。
「やっぱり気になるわ」
そう言って、次の言葉をうながすように、彼が着ているオックスフォードシャツの袖をひいた。
「今度、君さえよければ……いや、やっぱりいい」
こちらを見ることなくそう言うと、早足で逃げるように行ってしまう。
「え!? それ余計に気になるじゃない」
そう澤村に向って叫んだけれど、彼の背中は駅舎の中へとあっという間に吸い込まれて見えなくなったあとだった。
(続)
第9章「二つの笑い声」はこちら
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#書き出しと終わり から
「雨が降っていた」ではじまり 、「私にも秘密くらいある」がどこかに入って、「あなたは幸せでしたか」で終わる物語を書いてほしいです。
というお題より。
もしかしたら「あなたは幸せでしたか」では終われないかもしれない物語です。
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