【連載小説】雨がくれた時間 9.二つの笑い声
前回の話はこちら 第8章「彼の理由」
始めの話はこちら 第1章「思わぬ雨」
9 二つの笑い声
「おかえりなさい」
振り返ると、あの若い駅員さんが制帽を取ってニコニコと私に会釈している。
反射的に「ただいま」と答えたものの、それはなにか違うような気がしたからか、その声はひどく小さくなってしまった。
せっかく笑顔で出迎えてくれたのに、こんな返事では申し訳なくて「ただいま戻りました」ともう一度、今度は笑顔ではっきりと言った。
「かなり濡れたんじゃないですか?」
彼はそう言って、私の足元へと視線を落とすと、ぐっと眉根を寄せた。
その目線を追って自分の足元を見てみると、たいていの染みなら目立たないはずの黒いスラックスの裾は、泥はねのあとで茶色くなっている。
車が勢いよく通り過ぎた際に水たまりを撥ね上げたのだと彼に説明すると「ひどいなぁ、そんな乱暴な運転をするなんて」と、まるで自分のことのように怒りだした。
赤の他人のことにここまで親身になれる彼の生真面目さが愛おしく、おのずと笑みがこぼれていた。
「なんか一人でベラベラと……すみません。余計なお世話ですよね……」
私がなにも言わずただ笑っているのを困惑していると思ったのか、彼はいたたまれないといった表情で頭を下げた。
「いいえ、気にかけてくださって本当にありがとう。傘のことといい、とてもうれしいです」
「世話焼きというかお節介というか……」
いつもやりすぎてしまい迷惑がられるのだと自嘲気味に言うと、彼はうつむいてしまった。
「そんなことないですよ。息子があなたのような人になってくれたらいいなって思ってました。困った人へ自然と手を差し伸べられる優しい人に」
取ってつけたような慰めでもなんでもなく、本気でそう思っていた。
すると彼はうれしそうに顔を上げ、細く骨ばった手で首筋をさすった。その顔はまるで夕焼けのように耳まで真っ赤だった。
そして気を取り直すように咳払いをすると「息子さんがいらっしゃるんですね。おいくつなんですか?」と私に聞いた。
「先月、十歳になりました。今年、小学四年生」
彼は「えっ」と声あげて目を丸くすると「息子さんが羨ましいなぁ」とぼそっとつぶやいた。
健太から口うるさいからイヤだといつも言われていると告げると「言わないだけですよ。少なくとも自分なら、こんなに綺麗なお母さんだったら絶対に自慢してます」と満面の笑みで言った。
すると次の瞬間、慌てたように「えっと……変な意味じゃなくて……」と言いながらバツが悪そうに額に手を当てた。
息子といってもおかしくはないほど年の離れた青年を相手に、妙な誤解なんてするほうが無茶だ。けれども、綺麗という言葉は素直にうれしかった。
「ありがとう。綺麗だなんてお世辞でもうれしいです」
「お世辞じゃないです!こちらこそありがとうございます。その……またのご利用お待ちしています!」
そう言っていきなり深々と、勢いよく頭を下げた彼の姿に呆気にとられる。
きっと言うことに事欠いたのだろう。その慌てぶりがかえって愛らしく、こらえきれずに吹き出してしまう。
すると彼もつられるように声をあげて笑いだした。
重なりあう二つの笑い声が駅舎にこだまして、行き交う人々がこちらに視線を向けては通り過ぎていく。そんなことなどお構いなしに私も彼も気の済むまで笑い続けた。
すると、胸のうちにずっと立ち込めていた霧のようなものがスッと晴れて、不思議なほど気分は軽やかだった。
「今度、息子さんといらっしゃる時には、ぜひ声をかけてくださいね」
「ええ、もちろん」
笑顔で見送る駅員さんに手を振り別れを告げると、すでにホームで帰りの電車を待っているはずの澤村のあとを追った。
(続)
第10章「意外な素顔」はこちら
Twitterの診断メーカー『あなたに書いてほしい物語3』
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#書き出しと終わり から
「雨が降っていた」ではじまり 、「私にも秘密くらいある」がどこかに入って、「あなたは幸せでしたか」で終わる物語を書いてほしいです。
というお題より。
もしかしたら「あなたは幸せでしたか」では終われないかもしれない物語です。
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