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第9話 無くしたパズルのピースが見つかった

2008年2月
下旬 

誰にも相談することなく日本を飛び出した僕が知らない土地で何かを始めようとする、それがどれだけ両親に心配をかけていたのかはその時の僕にはわかるはずもなかったけれど、きっと断腸の思いがあったはずだと、自分の子が思春期にさしかかってようやく気がつくこともある。こちらからは近況報告など一切しなかった僕の唐突な依頼に母は驚きと憤りを隠せなかったけれど、何も言わず僕の調理師免許と戸籍謄本を外務省に持っていき交付されたアポスティーユの貼られた書類を国際郵便で送付してくれた。この時、母が助けてくれたことは感謝をしてもしきれない。アポスティーユと聞いても一体なんのことか全くわからない母はどうやってそれを手に入れたのだろう。小さな頃から商売などせずに安定した職に就けと育てた息子が地球の裏側の見知らぬ地で何も告げずに突然移住して、商売をはじめるらしい。そう聞いた時はどんな気持ちだったのだろう。考えると胸が苦しくなるけれど、当時の僕は目の前の課題を一つ一つクリアすることでいっぱいいっぱいだった。

日本からの郵便が到着するのは2週間後でそれをそのまま僕は首都にある政府公認の翻訳家のもとへ送らなければならない。与えられた30日はもう半分も残っていなかった。僕はどうにかして日本からの書類を提出しなくても自分の調理経験が証明される手段はないかとそればかり考えていた。

「とにかく君が君の店で調理をするならば、それが出来るという証明をなにかしらの形ですることが必要だよ。」

とパコは言っていた。「調理が出来ることを証明」すればいいのだから、それならここで取ればいいのではないか?そう思って僕は街にある大学の調理科へ行って短期の料理コースの様なものがないか、そしてそこでコースを受けて何かしらの証明をもらえないか?そう尋ねてみた。僕の思惑通り、大学には調理科があって、受講すればしっかりとした証明書をだしてくれることがわかった。しかもそれならスペイン語だから翻訳する必要もなければ正規の大学が発行しているものだから日本の外務省のアポスティーユを取る必要もない。我ながら名案だと僕は早速コースに申し込みをしようとした。

しかし、そんな誰でも考えつきそうな名案が通用するはずはなかった。コースの内容を見ると、最低でも3ヶ月、6ヶ月、そして2年の課程があってどれも間に合わない。受付の人に事情を説明して先に卒業証書のようなものをもらえないか?と掛け合ったが、意味が通じない。それはそうだコースも受けていないのに卒業証書が出せるなら簡単に学歴なんて詐称できる。いくらラテンのノリとはいえ、そんなことは出来るわけはないのだった。
大学の隣にある中世から残る少し古びた教会の椅子に座って冷やりとした空気を吸うと僕はそれを一気に溜息として出した。目の前には間近の復活祭の為に修復を受けている途中の傷だらけのイエス・キリストが僕を見ている、見上げた先にはステンドガラスから差し込む光が風でゆらゆら揺れていた。幻想的なその光景は自分が何処にいるかを忘れさせてくれ、心地よい安堵感を与えてくれた。
本当に期限内に着くかどうかわからない日本からの国際郵便をただ待つだけではだめだ、僕はそう思いながら決して開けることはないと仕舞い込んだ思い出の蓋をそっと開けた。

2007年
6月

この国に来る半年程まえに僕はカリブ海に浮かぶ島で何故かこの国の大統領に料理を振る舞うという大役を任せれていた。カリブ海諸国の首脳が集まる会合が、島のリゾートホテルで開催されることになり、僕はそのホテルのシェフだった。コック達だれからも信用をされていなかった僕は全くまとまらないチームで国を挙げた重要なプロジェクトの料理を担当していた。大きなイベントを任されるという高揚感や興奮は皆無で一人黙々と段取りをしながら見えない敵と戦っていた。各国の首脳が集まる会合で流石に粗相はできないという緊張とバラバラなチームを見かねてホテルの幹部達が喝をいれたおかげで初日のウエルカムパーティーはなんとか終わった。翌日、グァテマラ、ニカラグア、パナマなどの諸外国首脳が集まりカリブ海諸国の課題を話し合う、その議長をしていたのが当時のメキシコ大統領フェリペ・カルデロンだった。甲殻類アレルギーを持っていたらしい彼の一皿をSPに囲まれながら仕上げていた事を僕は思い出した。調理をすることができることを証明するなにか、明確に何かとは指定されていないのなら、この時の事をなにかしらの形にして証明できればもしかしたら。。。そんな期待を込めて僕は大統領府の住所を見つけ出して大統領フェリペ・カルデロンに宛てて一通の手紙を書いた。

「拝啓 フェリペ・カルデロン殿 

私は去る2007年6月にカリブ海諸国の会議で貴方に料理を作った日本人です。貴方は覚えてはいらっしゃらないかも知れないですが、私はこの国で自分のお惣菜屋を開く為に労働ビザが必要ですが、技能を証明できるものがありません。そこで、貴方に料理を作った事があるということでそれを証明しようと考えて今このお手紙を書いています。どんな形でも構いませんので、あの時私が料理をしたことが真実だということをレターにしたためて頂けませんか。あの席で私が料理を担当したという証拠になるかわかりませんが。あの日の夕食には貴方の皿に限っては海老もロブスターも加えませんでした。カリブ海に浮かぶ島でのお食事を思い出していただければ幸いです。」

なけなしのスペイン語でしたためた手紙を僕は大統領府に速達で送った。今から思えばなんと稚拙で説得力のない手紙だろうか。「料理を作った事があるから証明して欲しい」? 馬鹿げた手紙を送ったものだ。きっと待つだけに疲れた僕は少しでも何かが動き出せば良いという絶望にも似た希望でパズルのピースをはめ込んでいた。

余談であるが、この話は誰も知らない。今まで誰にも語らなかった。その後の展開の進み具合の変化にゼロではない影響を与えたかもしれないけれど、この手紙の効果で僕の労働ビザが取れた。という奇跡的なストーリーではもちろんなかったし、このホテルでの経験は後に僕の異文化での働き方、チームの作り方、そして嗜好に合わせたローカライズなど沢山の部分で非常に影響を与えるものではあったけれど、成功とは程遠いこの島での思い出の1ページを今まで僕は誰にも語る気分にはならなかった。

10日後、日本からの国際郵便は追跡するとマサトラン港の税関で留まって5日が過ぎていた。太平洋を渡ってアメリカ大陸に到達したことに感動を覚える。郵便局に確認すると、税関で足止めされているので、自分達ではどうすることもできないけれど、おそらく翌日には着くだろう。というお決まりの台詞を聞いて僕はいつものカフェに行くためにアパートを出た。門に巻かれている大きな鎖をほどいているときに足元に落ちた封筒を拾い上げると、そこには僕の名前が記載されている。自分でも覚えられないテペフアヘスとう住所に住んでいる日本人に一体誰が?封筒には印字された住所と僕の名前それ以外には何も書いていない。開けるかどうか迷ったけれど、紛れもなく自分の名前が書いてある封筒を開けない理由が見つからないので門の側の石垣に腰掛け、中身が切れないように封筒の縁を破いた。
封筒の中には2周り程小さな封筒がもう一つ入っていた。そこにも僕の名前が記載してある。今度は差し出し人のところに何かが書いてある。

Oficina Ejecutiva del Presidente... 

たしかそんなふうに書かれていた。そして封筒には蛇を咥えた鷲とサボテンの透かし絵が施されていた。


つづく



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