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第11話 スタートラインに立つ為の切符を手に入れた

2008年
3月下旬

首都メキシコシティで泊まったホステルのドミトリーはちょっと気を抜くとターゲットにされる気がしてゆっくり寝れなかったけど、朝食に屋上で飲んだネスカフェの味は何故か今でも覚えている。一泊$70ペソ。とてもじゃないが安全そうに感じなかった区画に建つ古びたホステルを後にして、どうやって見つけたのか忘れてしまったけれど、散々歩き回って辿り着いた業務用厨房機器を扱う店が並ぶ道具屋横丁の様な場所でお惣菜を並べる為の手頃なショーケースを注文してから北バスターミナルまで地下鉄で戻った。地下鉄はカオスそのもので流しのミュージシャン、海賊版のCDを押し売りする少年、顔が腫れ上がって血だらけのジャンキー、奇抜な服装のピエロ達が次々に車両に入ってきては降りていく。酒と尿と香水とあとはなんだかわからない匂いが混雑した地下鉄の車両の中で座わってしまうと逃げ場がなくなるようで怖くなって立ちっぱなしだった僕は移民局でもらったドキュメントが入ったバックパックを両手に抱えながら何食わぬ顔を必死に装った。車両を降りるとそのまま人の流れについていく。それが外に出る方なのかは自信がなかったけれど、ただキョロキョロと行き先を確認しながら歩く事の方が怖かった。階段を登ると、バスターミナルが見えた。外に出たので思い切って深呼吸をする。美味そうな匂いだ。そういえば朝から何も食べてなかった僕はその匂いにつられてタコス屋台に並んだ背が高い椅子に座るとコカ・コーラと1個$7ペソ程のタコスを6つ平らげた。タコスとコカ・コーラは一種の中毒性があると僕は思った。大きな鉈のような包丁を軽快に操りながら周りの光景とは正反対の真っ白な制服を来た兄ちゃんがケバブの様に重ねて焼いた肉を切っていく。もう片方の手に持ったトルティーヤを鉄板に溜まったギトギトの脂に浸してから香ばしく焼き上げる。それに肉を挟んで、これもまた軽快に肉の塊のてっぺんに焼かれたパイナップルを切って受け止めた。パストールという名の具沢山のタコスを頬張ってはコカ・コーラで流し込む。これはコカ・コーラじゃないと駄目なんだ。そう思いながら僕は誇らしげに脂まみれの親指を口に含んできれいにしてから、バスターミナルへと向かった。バスターミナルは復活祭の前で混雑はしていたけれどグァナファト行きのバスは予定通りに出発した。朝から歩き疲れていたのと、自分の身を守る緊張感でくたくたになっていた僕はリクライニングを目一杯倒して目を閉じてこれからどうやってお店を作ってオープンすればいいのかを考え始めた。

店にする物件はとても狭い20平米ほどしかないスペースでキッチンに出来そうなところは畳2枚もない。内見したときは何もなかったからなんとか出来ると思った広さも、カウンターを作って、冷蔵庫を置いたり、コンロを置いたりしたら残ったのは4畳半ほどのスペースだけだった。店内のペンキ塗りはいつものカフェで知り合った留学生達が既に始めてくれていたし、ショーケースも買ったから後はメニューを考えよう。問題は日本食材だよな。確か隣の大きな街に小さいけれど日本食材店があったはずだからそこに行ってみよう。考えなければいけないことは沢山あったけれど、労働ビザと営業許可証のことに比べれば簡単に答えが思い浮かぶことに安心していつのまにか僕は眠りについていた。

バスは途中で軍隊の検問で何度か止まったけれど、いつになくすんなりと街に入ったようで、いつのまにか見慣れた光景を照らす朝日が窓から差し込んで僕の目を覚ました。

2008年
3月下旬

僕はまた移民局にいた。いつもよりも安心して順番を待ちながらこの数日のことを思い出しながらTVに映る音のないドキュメンタリーを見ながらリラックスしていた。ここに来るまでの間に必要な什器もテーブルも、近くの大工に手書きの図面を渡して作ってもらったカウンターもある程度の準備は出来ていてあとはなんとかして開店するだけだった。
整理券の番号が呼ばれた。国旗が印刷されたパスポートと同じ大きさの緑色の冊子を手渡され、受け取り証にサインをすると、

「おめでとう!」

なんて言われることもなく、

「 ”税務署の登録番号” を14日以内に提出するように。」と書いてある通知を手渡され僕はすこし拍子抜けしてしまったけれど、どうやら僕は労働ビザを手にしたことに実感がようやく湧いてきてその小さな冊子を眺めながら泣いた。「どうしてこんなことをこんな遠いところでやっているんだろう?」この時はまだ自分が始めたお惣菜屋が地球の裏側で皆に愛される繁盛店になることなど0ミリも想像していなかったし、これからはそれをもっと広い世界で挑戦してやろうという思いもなかった。ただただ「お前そんなとこでわけわからんことやってんとはよ日本に戻ってきて普通に働けや。」と誰もが反対していた事をどうして自分は頑なにやろうとしているのだろうか?と思って泣いていた。そして、この小さな冊子を手にするまでに見ず知らずのアジア人に手を差し伸べて、優しく助けてくれた沢山の人達のことを思って泣いた。海外で生きていく、仕事をしていく人にとって労働ビザというのはスタートラインに立つことが出来るための入場券のようなものかもしれない。だけど、その入場券を手に入れる為に奇跡のような沢山の優しさに触れられたことは今後の人生にとってもかけがえのない出来事だ。この労働ビザを取得したおかげで、この後何度も何度も沢山の困難とやり場のない憤りと悲しみを経験する僕は、それよりももっと沢山の優しさと幸せと感謝を手にすることになる。これを書いている今もこの先の事はまだなにも始まっちゃいないし、不安が募るけれど、同じく何も始まっていなかったこの当時と違うのは、この労働ビザを取得したことの経験やこれから始まる地球の裏側でのお惣菜店のストーリーの中で出会ってくれた人達がいることだ。この時の様に僕は沢山の優しさを受け取って前を向いているし新たな夢にチャレンジする事ができる。これから僕はその優しさをまた違う誰かに渡していこう、そんなお惣菜をこれからも作っていきたい。日常の食生活が、家庭での食事が優しさに溢れたならば、世界はもっときっと平和になると信じている。

パコは「ありがとう」と言った僕に少し照れたように笑顔で返してくれた。
移民局の外にでると相変わらずペドロの事務所は忙しそうだった。ボンネットの大きい青いバスが向こうから砂埃をあげて猛烈に走ってきたので手を挙げてみると僕を少し通り過ぎてから止まったバスから子供の車掌が僕を手招きして乗れと促した。

「バスターミナルまで行きたいんだけど。」

という僕に、子供は何も言わず小さな頭を傾けた。

「じゃあ乗りな。」

と彼は無言で言っていた。

どこかの村からやって来たかと思わせる乗客達が僕をジロジロと見ているけれど、どこか悪い気はしない悪意のない目線を通り過ぎて、一つだけ空いていた椅子に腰掛ける。隣の女性は幅広く僕の椅子の半分まで占拠していたけれどそれも何故か悪い気はしなかった。アナウンスもバス停もない道のりで本当にバスターミナルまで着くのか、着いてもどうやって降りるのか戸惑っていた僕を見ていたかのように子供の車掌は

「バスターミナル!!」

と大声で叫んだ。

乗っていた半分くらいがバスターミナルで降りるようで、隣の幅広の女性の太ももが僕の尻を押したせいで僕は流れのままバスを降りることができたみたいだった。

3月も最後の週で僕は労働ビザを手にして、ようやくお惣菜のお店を開ける事ができる。開業の日は4月1日。エイプリルフールに嘘のようにお店を開けよう。そう決めた僕はグァナファトに戻る為にバスに乗り込んだ。


つづく

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