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はじまり。

2008年に地球の裏側メキシコのグァナファトにてお惣菜デリカ「デリカミツ」を創業しました。2020年10月、12年半に渡って喜怒哀楽満載の思い出がつまった宝石箱を胸に代表を引退しました。このnoteではそんな日々を振り返り備忘録として、同じ失敗はしないように、またこれからの新しいストーリーの為に記していきます。

第一話 
2008年1月

宝石箱をひっくり返したような街

という形容詞がぴったりとあてはまる、世界遺産の小さな街の、誰も知らない路地裏に僕はいた。 

「本当にこんな場所でお店をやるのかい??」 

と旅人界隈ではちょっと名のしれたカルロスが心配そうに聞いた。カルロスは絵に書いたようなスケコマシで日本人が大好きで、何故だかわからないけど彼の周りには中南米を旅している旅人達が集まっていた。僕は所謂旅人ではなかったけれど、決して大きくはないこの街でカルロスに出会うのにそんなに時間はかからなかった。いつもボサボサの長髪に何重にも重なって日焼けしたドス黒い顔、ハンサムではないけどどこか危ない雰囲気を出すカルロスはいつも日本人の女の子を連れていた。まあ、カルロスから言わせれば ”知らないうちに一緒にいる” という感じで、その絶妙なオンナタラシのカルロスに女だけでなく、中南米を旅して刺激を求める旅人が彼に集まってきていた。そんなカルロスに何故か少しずつ嫌悪感を頂いていた僕も、彼が放ったその一言には同意するしかなかった。。

「そうだよね。。ここ誰も人が通らないし。。こんなところに路地があるなんて誰が知ってるんだろ?」 

「だろ?俺もお前に連れて来られるまでは知らなかったよ」

と何十年も住んでいるカルロスが呆れたように言ったけど、彼が出した代替え案は

「車で8時間くらい行くとマリファナがたっぷり吸えるビーチがあるんだ。そこでお店を出したらどうだ?」

だった。。ので無視したんだけど、よく考えれば ”マリファナを吸いまくって日本食を食べるなんてクールなんだ” と言ったカルロスはもしかしたら ”体験を提供する” という現在の飲食店の黄金ルールをその時に僕に教えようとしていたのかもしれない。。 

んなわけないか。。。

だけど、

そんな彼の生き方が羨ましく思えたり思えなかったり、その時の僕には3歳になったばかりの長男がいたのに、ビーチでマリファナを吸いまくってお店をやるという選択肢が現実的には思えなかった。 

地球の裏側でなんのツテも、経験もお金も、ビザさえもない僕が人っ子一人通らない路地裏でお店をやろうとしていることの方が、カルロスからしたら非現実的だったのかもしれない。
カルロスには年に数回だけ会うという5歳の息子がいて、気が向いたら旅の途中の日本人女子と束の間の恋愛を楽しんでいる。そんなハッピーなライフがあるわけで、そもそも自分で商売をするという発想が彼の辞書にはないのだ。

世間のしがらみも、偏見も、日本人らしく育った僕の他人を気にしすぎてしまう性格も全部嫌になって日本を飛び出して、誰も知らないこの街に流れてきたのに、カルロスのそんな自由奔放な生き方に何処か憧れない自分がいた。

後日談だけど、つい先日スーパーの駐車場でボロボロのフォルクスワーゲンにサーフボードを積んで、キューティクルなんてゼロのボサボサの長髪と20年くらい顔を洗っていなさそうな真っ黒な顔のカルロスがマリファナを吸いながら楽しそうに話してる姿を見た。 最後に会ってから12年振り。きっと彼は今もなおあの路地裏で開いたお店を続けているとは思ってないだろう。声をかけたら12年前にタイムスリップしそうで何故か僕は声をかけなかったけど、でも、きっとカルロスは ”Que Chido” 「クールじゃん」と言うと思う。何年経っても、その間何があってもそんなのカンケイナイ、”今がハッピーなら良いじゃん”、”今日生きてるだけで奇跡じゃん。”
当時は嫌悪感しかなかった彼の人生に対する向き合い方が、少しだけわかる気がする。”だから今を精一杯楽しもうぜ。” カルロスはいつもそうだった。

「こんな場所じゃあダメだよ」

教科書通りの飲食店開業の立地セオリーだ。 表の広場からは、その物件はもとより、その路地に入る入口すらもわからない。一日中ずっと表の広場で人の流れを見てても、誰一人その路地には入らないのに、何故か僕はその物件を借りたのだった。 

一つには、既に物件を探し始めて1ヶ月が経ち、大きくない街の物件という物件を見尽くした後に突然出てきた物件だったこと。

一つは、確かにその路地裏は誰にもわからない場所にあったけど、表の広場は街でも有名な広場でその広場の名前を言えば皆知っていたということ。

そして、もう一つは。。。正直、わからない。。 
どう考えてもそんな場所で何かを始めるのは正気の沙汰ではない。
ただ、一つ言えるのは、そう、正気ではなかったということ。
これだけは言える。正気ではなかったのだ。

そもそも、観光ビザで滞在している日本人、アジア人に誰が物件を貸すのか? 借りたところで、そこでお店をするのにどれくらい資金が必要で、どれくらい運転資金があるのか? いやいや。。。そもそも外国人が路地裏とはいえ不法で商売なんかできないだろ? え?できないの? 
だったらどういうビザが必要で、それはどうやって取得するのか?

今思えば当たり前に出てくる疑問も当時の僕には全く頭になかったのだ。
かといって ”なんとかなるさ” という楽観的な感じでもない。
沢山の人の反対を押し切って、結婚して2年も満たない新妻と当時1歳半の長男を連れて日本を飛び出した。出来ると思っていた事が出来なくて、行き場を失った。今振り返ればそういう状態だって説明できるけど、当時の僕はそんな現状すら把握できなかったのだ。

路地裏が悪立地だって? 

わかるはずないのである。


とはいえ、いつもそうだけど、ラテンのノリが僕を救ってくれる。

正式な滞在ビザがないから銀行口座もないし、連絡が取れる電話番号すらも、そもそも日本人だし。観光ビザだし。。

だけど、なんの信用もない僕はその物件を借りることが出来たのだ。 

意味がわからない。 そんな貴方の感想は間違いではない。 

明日飛ぶかもしれないし、保証金なんてまだ払ってもない。貸します?

今では考えられないことだけど、10年前のこの街は今よりももっとラテン的で細かい事はあまり気にしない人たちに僕は何度も救われたのである。

この時、この物件のオーナーという僕よりも若い女性が巻き起こす奇想天外な出来事を当時の僕はまだ知らない。  
だけど、兎にも角にも、何もない外国人の僕に自分の管理する物件を貸してくれたのだ。

家賃$2000ペソ 

これが地球の裏側のお惣菜屋の物語のはじまり。

はじまり。

つづく



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