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シン・俳句レッスン163



『「俳句」百年の問い』夏石番矢

「無中心」という新しい時空(河東碧梧桐)

碧梧桐は正岡子規に反することをしたように思われ勝ちだが虚子よりも写生にこだわっていた。ただ自然を観察するとそこに多様性があり、自己のような中心がないと主張する。山歩きなど自然のなかを俳諧することを好んだ。この傾向は、井泉水から自由律の尾崎放哉や山頭火に受け継がれていく。

目の驚嘆(P=L.クーシュー)

クーシューはB.H.チェンバレンの俳句をさらに理論的に説明し、世界に拡散人であった。俳句を短詩としての構文を持ち、映像を換気する自由なる(スケッチ)抒情であるとした。それは内部にある目(心眼か)で比喩的に喚起するイメージの詩であり抒情エピグラムと呼ぶ。

落下枝にかへると見れば胡蝶哉 伝守武

この句は江戸時代に流布したが正しくは、荒木田守武の句ではなく荒木田武在の句の語句を改変したものだという。作者の固有性よりも作品の優位性があったのかもしれない。

落下えだにかへるとみしはこてふかな 荒木田武在

十七音の形式の力(芥川龍之介)、潜在意識がとらえた事物の本体(寺田寅彦)

芥川龍之介は「ホトトギス」に加わったが17音の短詩系とみて、必ずしも季語は必要ないと考えていた。その点はチェンバレンの思考に近いのかもしれない。寺田寅彦になるとクーシューに理論になる。

超季の現代都市生活詠へ(篠原鳳作)

篠原鳳作は新興俳句の俳人で無季であることは、都会人の機械や文明に新しい発展いく姿だとして旧来の俳句を批判した。ただ機械文明に希望を持っていた時代なのかもしれない。

歴史的産物としての俳句(山口誓子)

山口誓子はそういう機械文明は都市性をモンタージュという手法で理論化したと思うが、晩年は日本の伝統や民族性に重きを置く発言をし、篠原鳳作とは真っ向対立していく。

水原秋桜子も加藤楸邨も俳句の新形式を模索したが結局は有季定型を捨てきれなかった。図書館本でここが抜き取られていた(とんでもない野郎だ!)

平板な大衆性を脱出しえない俳句(桑原武夫)

戦後の「俳句第二芸術論」が議論を呼んだが、戦時にすでにそのようなことが書かれていた。それは俳句による情操教育が一元化を生み出し西欧の論理性を身につけることがないという教育のことを言っていた。だから俳句教育を無くせは言い過ぎだと思うが。

桑原武夫の暴論?に山本健吉らの俳句擁護者が登場してくるのもこの時代。その反動が新興俳句弾圧に繋がったのか?

「創る自分のダイナミズム」金子淘汰

戦後になって、戦時の反省をふまえて金子兜太の前衛俳句が登場してくるのだが、社会性俳句に取り込まれていく。それは金子淘汰の理論の説明が難しすぎたのだと思う。象徴を「造形」と言い、直喩でもなく比喩的に俳句を創るというのだが、例題が直喩とまぎわらしい。

銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく 金子兜太

「蛍」が象徴であり「蛍烏賊」の群泳を詠んでいるのだが、蛍光灯が烏賊の光のように読めてしまう。直喩は和歌にある見立てということなので、そこから象徴というステップアップが必要だとするのが「造形俳句」ということなのだが、「社会性俳句」と見なされていくようになり自然消滅していく。

「二重星の世界」中村草田男

金子淘汰の天敵となったのが中村草田男であり、有季定型の雄だったのかもしれない。その論理は精神ということで伝統や民族性を重んじていくのが俳句であるとして、今はその論理が優勢なのかなと思う。季題の中心ということに日本の伝統と民族性を見ているようだ。自己ということだろうか。このあたりになると直感の精神みたいな話になって西田哲学に近いのかもしれない。本質とか普遍性とか哲学的論理だった。

夏石番矢「キーワードから展開する俳句」

夏石番矢が新興俳句系なので、最後にまとめように季語をキーワードと変えている。それは象徴する言葉を中心として、その中に自己を開放していくことなのかもしれない。それは芭蕉の時代からあったとするのだ。正岡子規が写生ということで有季定型の俳句の作りやすさと広がりを言ったのだが次第にそれがマンネリ化して新しい道を探って行ったのだと思う。今なおこの問いは深いものがある。

句会反省会

今回も駄目だった。年寄りが多いので死とかあの世の句が多い。自分もけっこうネガティブな死の句とか読むがその方向性で行けばいいのか?ちょっと若作りしすぎたか。あとやたら蘊蓄を語る人が多く、それは感性ではないと思う。わたしの場合は第一印象でわからない句はわからないとしてしまうのだが、けっこう辞書とかで意味を調べている人が多いのだ。というかすべてかな。それだけ経験者(年寄り)が有利になり、新人は蚊帳の外ということになる。またわからないとか言われた。

雛菊や有季定型恋心 宿仮

雛菊のイメージだよな。雛だから初恋じゃないか。アグネス・チャンの「ひなげしの花」という歌もある。あれは芥子の花でヤバい歌なのかもしれないが。

そういう文化の違いなのかと思う。そうかと思うと健さん映画で昭和で通じる。寅さん映画もあるし、入れ替え可能だと思うのだが。雛菊も入れ替え可能か?これは一連の流れの中での句でその前に

秋明菊有季定型菊でなし 宿仮

と詠んで連句の形だったんだよな。

横書きの有季定型AI句 宿仮

とか重ねて、今日もう一句できたのだ。

縦書きのミミズ這ふ枯野かな 宿仮

リアル句会は短冊に文字を書かねばならない。もうその字を見るたびに落ち込んでしまう。ネットだと横書きで難しい漢字も使える。リアル句会だとなるべく難しい漢字は使わないようにし、選句も書ける漢字を選んでいるのだった。まあ、俳句の選句の幅が狭まるのだけど読めない漢字に感動するわけはなく、調べるのも面倒だった。それで第一印象のリズムとか絵画的なことで選句するのだけど、そのぐらいで自分がいいと思う句なんてほとんどないのだった。あとから解釈を聞いてなるほどと思うが、それは俳句を何年もやっている人に通じることであって、ほとんどの一般人には通じないと思ってしまう。その敷居の高さだろうか?まだ本格的に俳句をはじめてから二年(本当は四年ぐらいか?)と言ったら笑われてしまった。最低でも6年ぐらいでそれも結社にはいっている人だった。そういう差が出てるのである。

「縦書きの」の句も厳密に言うとミミズは夏の季語で枯野は冬の季語なのだ。しかしこの句をだしたかったのはまだ枯野かもしれないが春になれば景が見えてくるかもという希望の元に詠んだのだ。芭蕉の枯野のイメージもある。枯野でやっていこうという決意表明の句でもあった。まあ、一人が取ってくれたけど、川柳だと思ったようだった。

季重なりがもう一句。

立冬に羽ばたく羽なく冬眠す 宿仮

これも立冬と冬眠が季重なりでこういう句を山本山と言われてしまった。しかし立冬の朝に目覚め起きようと思ったら鳥のように(鳥の囀りで目覚める)羽がない熊は冬眠するだろうと詠んだのだが、撃沈。

もう一つ。これは納得が行かなかった。

月隠す白雲もまた嫉妬す 宿仮

ベンチにアベックがイチャイチャしているのを見ているのである。それを照らす月と隠す白雲も同調して「嫉妬す」でいいと思ったらわたしを出せという。「我嫉妬す」ということか。俳句は我を消すものだと思っていたが、この句会では我が主体として人間を詠んだほうが面白いという。それで葬儀とかの句が多くなるのだが、なんかなあという気持ちになるのだった。自分が特選にした句は元気が出る句だった。

脱ぎ捨てる重ね着フックだアッパーだ 特選

元気をもらえるような句でフックだアッパーだもリズムがいいと思った。実際にスポーツクラブでボクシング体操みたいなことをやっていたのだという。まあ、こんな俳句らしからぬ句を取るのは自分しかいないわけだった。

本当の特選は

冬銀河飽食の民飢餓の民

いいとは思うがすでに詠まれそうな句だよな。「飽食の民飢餓の民」も慣用句的だ。慣用句はダメ出しするのにこういう句が票を集めるのが解せない。まあ社会詠でガザの問題と日本の問題が入っているから共感を得るのだろう。

共感を得るのはいいんだけど新しい感性の発見ということなんじゃないのかと思うのであった。

あと直前に作った平凡の句が佳作に選ばれた。

北風に招かれシチューの匂ひかな 宿仮

これは題詠「招く」だったから、イメージで作ったのだ。温かい家庭の句は受けるかなと思って。まあ自分としては、

縦書きのミミズ這ふ枯野かな 宿仮

これが自信作でリアル写生句だと思っている。ネットはポジティブがいいがリアル句会はネガティブでもいい。人を読む(ほとんど自分)。あと季重なり注意。ほとんどこのへんは難しいんだよな。「踊り」は季語という人もいるし。自分は季語なんてクソ喰らえと思っているのだが、郷に入れば郷に従えと思ってしまう。まあ句会だからと思うのだが最低点ばかりで嫌になる。

高浜虚子 俳句の力「虚無を飼いならした男」

岸本尚毅『高浜虚子 俳句の力』から「虚無を飼いならした男」。有季定型の理論ならやっぱ岸本尚毅が一番だと思う。わかりやすいし論理的だ。
虚子についても、立つ句ではなく平伏する句だという。大抵の良句とされているのは、立っている句なのだ。

突き抜けて天井の紺曼珠沙華 山口誓子
芋の露連山影正しうす 飯田蛇笏

虚子の句は虚無の子だというのだ。

大寒の埃の如く人死ぬる 高浜虚子
遠山に日の当たりたる枯野かな

虚子は死の運命は避けられないからそれを見つめていこうという態度だという。それに立ち向かったりせずにただ受け入れるだけの俳句。精神的に鼓舞する俳句ばかりだと疲れる。毎日ベートヴェンの交響曲を聴くのではなく自分がホスピスに持っていくとしたらモーツァルトの曲だというのだ。俳句で言うとそれが虚子なのだという。

枯菊を剪らず日毎あはれなり 高濱虚子
炭を焼く静かな音にありにけり

なんのひねりを加えずそのままの句がいいとされる。簡潔な余白のある句で詰め込み過ぎない。例えば芥川龍之介は詰め込み過ぎるという。

木がらしや目刺にのこる海の色 芥川竜之介

文芸作品としては細密画のような句なのだが、虚子の句は余白の外にまだ時間が流れていく余地があるのだ。

流れ行く大根の葉の早さかな 高濱虚子

「断片」から「無限」の時に向かっていく広がりがあるという。

虚子の最後の句も虚子の性格が良くでているという。

独り句の推敲をして遅き日を 高濱虚子

それぞれの俳人の辞世の句を見ても虚子はぐずぐず中途半端な感じなのだが、そこがいいのだという。なるほど平凡な句の良さということなのか。力み過ぎない自然さの大切さ。



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