東西冷戦に引き裂かれたドイツ
『物語 東ドイツの歴史-分断国家の挑戦と挫折』河合信晴 (中公新書)
一九四五年五月のベルリン陥落後、ドイツは英米仏ソの四ヵ国に分割占領された。四九年に東西に国家が樹立、九〇年に統一を果たすまで分断は続く。本書は、社会主義陣営に属し、米ソ対立の最前線にあった東ドイツの軌跡を追う。政治史を中心に、経済、外交、人びとの日常を丹念に描き出す。非人道的な独裁政治や秘密警察による監視という負のイメージで語られがちな実態に迫り、その像を一新する。
『物語ウクライナの歴史』『物語ポーランド歴史』と読んできて『物語東ドイツの歴史』だった。輝かしい女性ドイツ首相のメルケル(父系がポーランドだった)を生んだ国でもあったのだが、彼女はニナ・ハーゲンに憧れる物理学者だった。そのメルケルは「東ドイツ」をナチスと変わらない「不法国家」と呼んでいたそうである。
新しいドイツの模索(1945~1949)
第二次世界大戦でのナチス・ドイツの敗戦後、ドイツは東西に分裂統治される。東側をソ連、西側をアメリカ、イギリス、フランス。ポツダム宣言で「非ナチ化」「非軍事化」が宣言されて、この時期はまだドイツは統一ドイツとして、ベルリンに占領軍が駐留していた。のちにこれがベルリンの東西分裂にもなる。
ソ連は戦後補償として、ドイツの重工業地帯を欲しがった。ドイツはソ連以外にも戦後補償する国々(特にポーランドやチェコ)があったので、ソ連としてもドイツに深く係わることを避けたかった。そうした外国との交渉や国内問題もあって、東西に分裂していく。東ドイツでソ連よりの社会主義統一党が生まれた。
冷戦と過去の重荷を背負って(1949~1961)
しかし、ソ連は統一ドイツになることによって、補償問題が遡上に上がると東ドイツとの二国間(重工業地域)の生産関係を失いかねないので、分断国家としての東ドイツを認めた。ソ連型中央支配体制は、アメリカの赤狩りや西ドイツでの共産主義化への違憲審査もあって、ドイツは冷戦構造の中心となっていく。その頃から東側から西側へ逃げ出すものも多くなる。
そんな中でスターリンが突如1952年にドイツ統一の解決策として「スターリン・ノート」を西側へ送る。ただこれはソ連の優位性を示すものだから、当然受け入れられない。ソ連の統一の働きかけは東ドイツ国内で受容されたが、スターリンはドイツの国内問題よりも対西側との問題が大きいので、やがてドイツ統一の思いだけが東ドイツで高まっていく中でソ連との軋轢も出てきた。東ドイツの計画経済は、ソ連が思っていた以上にはよくならず、締付けや粛清が続く。
1953年6月17日事件。党本部のノルマの引き上げに工場では反対デモやストライキが起きて、西ベルリンではこの様子を盛んにラジオで伝えた。西ベルリンからのデモもあって、収拾するのにソ連軍が出てくる。東ドイツ政府が事実上ソ連に下ったとして、西ドイツでもドイツ統一の願いは民主化運動と捉えられ、この日を「ドイツ統一の日」とした。
東ドイツ政府は、無論このことを西側のスパイが扇動した日として、反乱と捉えている。6月17日事件によってますます締め付けや粛清(シュタージの存在、隣人監視システム)が激しくなる(メルケルが批判したのはこの制度か?)。
しかし、若者の流出の状態では東ドイツはままならくなるので、懐柔策として消費経済重視の政策に変化していく。1956年スターリンの死による雪解け。重工業政策の転換によって、西ドイツ経済を追い抜くまでになる。しかし、消費水準は相変わらず低いまま、政府は潤うが民衆の生活は相変わらず苦しかった。ただ政府は西ドイツとの競争意識を植え付けた(オリンピックでのメダルラッシュはその成果)。しかし、相変わらず西に亡命する者が多いので1961年西ベルリンに壁を作った(毎年10~20万以上の人が亡命し、壁を作ってからは1万以下に落ち着いていく。それでも多い。)
ウルブリヒトと「奇跡の経済」(1961~1972)
ベルリンの壁は、東ドイツでは「アンチ・ファシズムの防護壁」と言われた。ウルブリヒトは、西ドイツに追いつく、追い越せ」の政策目標を語るが、西側の情報を遮断すべく、西ドイツのTV放送視聴反対キャンペーンを行った。自由ドイツ青年団に民家のアンテナを撤去させた。しかし、地方では高感度アンテナが売られていたり、室内アンテナも出回って効果はなかった。
徴兵制の導入と兵士になれないものは建設兵士(この仕組は一般には知れ渡らなかった)となった。
政府に対して不満は増大していくが、ウルブリヒトは経済政策は次第に好調になっていく。60年代には、ソ連よりも経済発展しているので、フルシチョフの後のブレジネフには優位性を示した。ソ連との対立構図も深まっていく。耐久消費財の増大(中でも車ではトラバントが有名)で市民は豊かになり、女性労働者も増えていく。余暇や女性に対する手当も増えて、文化面でもある程度の自由は認められていく。そうした豊かな東ドイツで育ったのがメルケルかもしれない。
ウルブリヒトの長期政権は、保守層からは嫌われていく。特にホーネッカーは目の上のたんこぶ的存在で、彼の失脚のチャンスを伺っていた。ブレジネフとも繋がりを深めていく。
ホーネッカーの「後見社会国家」(繁栄から危機へ1971~1980)
60年代の好景気も70年代になると失速して保守的傾向を強めていくとともにソ連へ近づく。西側の貿易赤字も増えていく。私営企業の国営化を目指したが、個人事業主(食堂など)は、国営企業で働くのを拒んだ。レストランの廃業が相次ぐ。
西ドイツとの共存しかなくなったために統一ドイツの理念は消え、新たに東ドイツネーションを作らねばならなかった。勤労労働者の社会主義国家であり、ソ連との結びつきを強調した。しかし、市民の中にはドイツ人という意識はなくならなかった(西側への憧れ)。
労働者と農民の国の終焉──崩壊(1981~1990)
東ドイツ国民のアイデンティティは、政府が考える社会主義国家でもソ連の傀儡国家でもなかった。一つはキリスト教的なヨーロッパの歴史としての宗教。メルケルの父がプロテスタントの牧師であったことなど、宗教性は排除は出来ない。それとプロシアの歴史性もナチスを拒みながらもドイツの歴史性からは逃れられないのだ。80年代になると極右的なパンク・ムーブメントの流行などもそうした現政権への反抗としてのナショナリズムがあっただろう。
そして、ソ連にゴルバチョフ政権が誕生して、ソ連邦が崩壊しつつあった。すでに東方諸国の民主化運動は抑えられなくなっていた。東ドイツでも西ドイツへの憧れ、イノベーションの遅れ、経済の行き詰まりによって、若者が西側への亡命を希望するようになる。ホーネッカー解任。Amazonvideoで『ドイツ1983年』という連続ドラマが80年代の東西ドイツや冷戦のことを描いていて面白かった。ソ連が核ミサイルを発射するという今と似たような状況のドラマなんだけど。
1989年11月ベルリンの壁崩壊。この頃のことはよく覚えているが誰もが希望に満ちた時期だったが、すぐに逆風になってしまった。ドイツ統一も結局は西ドイツが東ドイツを併合した形となって、東西格差社会を生み出す。同じ年の中国での天安門事件。ソ連のアフガン撤退もこの年だったのだ。国際ニュースが目白押し。今と状況が似ているのかもしれない。