シン・俳句レッスン79
今日も画像は借り物だった。もう下手な写真上げることもないな。今日は柄にもなく「新年の抱負」にしよう。シン・短歌レッスンがそれだったので、夢は大きく持ちたい。宝くじあたっているかな?
まだ初詣も行ってないのだが、今年は辰年なのか?もう干支も何かわすれてしまう。辰を折り込むのもいいかもしれない。
「竜天に登る」が春の季語。龍の玉とか初辰という季語もあったが、これは日にちだった。一月五日が2024年の初辰。西暦ばかり覚えてしまう。今年は令和6年だった。もう昭和から平成だけでも驚きなのに、令和はまったく眼中になかった。令和とは
これを万葉集で大伴旅人が「梅花の宴」で序文に用いたのだった。
まだ梅も咲かないよな。竜にしよう。
短歌じゃなかった。俳句。
俳句の達人(鈴木六林男)
鈴木六林男はおもしろい句がありそう。言っているも面白いしまともだ。なかなか自由にやるというのは難しいんだけど。
鈴木六林男は西東三鬼の弟子筋に当たり、西東三鬼の裁判(三鬼が「新興俳句弾圧事件で仲間の釈放金を着服したという名誉毀損裁判)で勝訴を勝ち得ていた。川名大の渡辺白泉が俳壇が嫌になって消えたのもそれを理由にしていたが、ちょっと事実は違うようだ。小堺昭造『密告』という小説が西東三鬼をスパイとして描いたことが事実と違って西東三鬼を貶めるものだったという。
それで新興俳句仲間の不信感を煽ったというのだった。これは知らなかった。鈴木六林男は俳句的にはかなり好きなので、信じられるかもしれない。何より裁判で名誉毀損が認められたことなので、小堺昭造は面白おかしく週刊誌記事を書く人だったのだろう。今で言う文春砲か?
昭和の言論統制を詠んだ句だという。「石階」というのは「せっかい」と「いしばし」と読みがあるが、この場合「いしばし」と読ませたい。神社に登る階段だろうか。そこを歩いている途上に頭上を渡り鳥が渡っていく。鳥は逃亡者のようでもあり死者のようでもある。
中国で佐藤鬼房に出会ったときに作った俳句。このときは逃亡兵だった。鈴木六林男は手紙に書くと憲兵に見つかって没収されるので俳句は暗記して帰宅の船上でメモしたという。そこが戦争俳句でも翼賛的な俳人とは違うところか。あきらかに戦争の厭世感や不条理が描かれている。
鈴木六林男の代表作と言っていいかもしれない。フィリピンのパターン半島(死の行進)に派遣されて詠んだ句だという。
同時期の句。シンガポールはマッカーサーの米軍がいて激戦になった。戦力の差は雲泥の差だが、大本営は死守することを命令する。
これで負傷兵として生き残ることが出来たという。戦時はニヒリストに徹して俳句を作っていた。無季俳句を詠む人はニヒリストにならざる得ない。有季定型はまだ自然に寄り掛れるアナーキストだという。このへんの発言は奥が深い。なかなか無季俳句を作れないのもニヒリストになれないせいかと思う。
戦後になるとニヒリストはヒューマニズムに行くという。このへんは良くわからないな。アナーキストはアナーキストのままだということのようだ。絶望感から抜け出せないのだろうな。まだ徹底されていないからか?ニヒリズムもヒューマニズムも根底は人間ということにあるという。人間を詠む。
母親は非戦闘員的である。破壊より創造という戦後の姿がニヒリズムからヒューマニズムになっていくという。
俳句いまむかし
坪内稔典『俳句いまむかし ふたたび』から。
冬・新年
「ふくら雀」は冬になってふっくらした雀。寒雀とも言う。
タツノオトシゴは雄が出産して子育てをするという。
「親しみぬ」は否定ではなく過去完了。親しんでいたという意味。冬の孤独になりがちなおを寒雀を観ることで勇気づけられたという句だという。北原白秋も寒雀を見て乗り切ったとか。
もうユニクロも安物とは言えなくなってしまったもんな。
かなり字余りだった。
まだまだ春隣ではないな。春も寒いのか?気持ちの持ちようなのか。新春というから、今は春なのか?立春が春なんだな。旧暦だとまだ十二月だし。
なんとなくそんな時期のような気がしてきた。いまはアイデアを温めるとき。
よくわからん。春隣と言ってみると明るくなるという解説なのだが。生まれるものの期待とか。
痛いほどよくわかる。炬燵じゃないが寒すぎてホットカーペットから抜け出せない。パソコンは机だから30分ぐらいのエネルギーしかない。ウルトラマンか?
火燵ようにノートパソコンが欲しい。スマホがあるんだが、スマホは見るだけだった。今日は引きこもりにしようと思うのだがこんなに部屋が寒いと外に出たくなる。
数え年だから正月に一歳としを取ると思って、年取った人かと思ったら小学生のようだ(小学生は俳句なんか作らんで外で遊べよと言いたくなる)。いおくれおんと読むらしい。名字だけでも難しいのに。勘弁してもらいたいよ。漢字を探すのに苦労する。
いい句だと思うが写生ではないよな。子規もこういう観念的な句を作ったのだ。正月は新たな気持を詠んだのか。一年と一生が対句的表現が詩であるという。
正月からやる気出したので休憩。
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