シン・短歌レッスン154
NHK短歌
テーマが子供っぽいというか、普通はそういうダイレクトに言わないことをあえていうとかどうでもいいような気がしてしまう。例えば大人だったら枡野浩一は嫌いとダイレクトには言わないものなのだが。大好きならば、そう言えばいいことのように思える。
これも直接的に言うのではなく間接的言う。定型の五七五七七がズレていくのが狙いだという。
定型になっているのか?
定型に整えるとこんな感じか?最近定型過ぎると思ってしまうのだが短歌の方は結構自由な気がするんだよな。
村木道彦
『短歌研究 2024.9月号』から「村木道彦「ショートランナーの『永遠』」。村木道彦は口語短歌を確立した元祖ライト・ヴァースというような歌人か。無思想(ということはないと思うのだが当時の社会詠的歌人とは一線を画す)。ただ言葉の使い方は上手いと思った。
青春短歌。「麦畑」は「ライ麦畑でつかまえて」を連想する。恋の歌ならば捕まえそこなった青春時代の冷ややかさか。水風呂がサウナ後のみずぶろというか、体育会系の水風呂だよな。「みずみちたれば」のひらがな表記。そこに幼さを感じるが、それが青春というようなみずみずしさ。
セックスを暗示していると思うのだが、すべてひらがな表記にすることによってライトな感覚。マシュマロのくちとか恥ずかしくて言えない言葉も平気。
文語体の新鮮さ。下の句は意味不明だが日暮れどきに(部活の終わりに)繃帯を転がして巻いていく、小指を立てている女子マネという感じなのかな。
これは未発表原稿で、中井英夫が取らなかった短歌だという。この方面の短歌は消したんだな。それが編集者の目利きというものかもしれない(「小」寺山修司はいらない)。
この歌が青春短歌の最後を締めくくるものとして一時引退する。緋色の椅子は一脚としかなかったのだ。いつまでも青春短歌ではいられないのだ。
俵万智が村木道夫短歌に出会って開眼したのも面白いと思う。そして俵万智は演じることによって、青春短歌を脱皮していった。
引退後の第二歌集は支持されなかった。そのもがきがこの歌にはあると思う。一人称短歌の罠なのか?
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