シン・俳句レッスン41
彼岸花。彼岸もとうに過ぎてはいるが。
俳句とは何か
坪内稔典『現代俳句入門』から。口承の文学ということ。黙読するようになってモノローグの小説になったという。対話ということなのだが、諺的なことも認めている。むしろ俳句も人々に繰り返し口ずさむことによって諺になっていくという。
口語の有用性は例えば宮沢賢治の方言や中原中也のオノマトペが詩としての音楽性を醸し出していることがわかる。俳句でも方言はけっこう有効なのかもしれない。
小寺勇は食べ物詠む俳人でもあった。
それは大阪という食文化の共同体が作り上げた俳句なのだろうか?
正岡子規の周りにいた俳人は若くて名句を残していた。それは当時「新俳句」という運動の中で互いに競い合っていたからだ。その中心となった正岡子規も自分たちの俳句理論を持っていたわけだ。その中で議論しながら、切磋琢磨して名句が生まれたのだと思う。
碧梧桐が24歳の時の句で虚子は27歳の句だという。30歳手前の若者が35歳で亡くなった子規という座に集ってそれまでのパターン化された月並み俳句から新俳句を作り上げていく。俳句は侘び寂びの老境の文学と言われるが、過去の俳人は20代で名句を作っていた。それは彼らがお互いに批評精神を持ち合わせていたからだろう。そして彼らが新しい地平を開くことに意欲的だったからである。
27歳で夭折した芝不器男の23歳の俳句。
不良俳句。アンパンはシンナーです。自分はやったことはないけど。
三好行雄
三好行雄は評論家のようだ。三好行雄著作集全七巻というのがあるぐらいだからよほどの人なんだろう。近代文学史が専門なのか?
初期論考で俳句に言及しているのが、石川啄木の三行短歌と高柳重信の多行俳句を対比して、啄木が短歌から文学(近代文学?)に重ねたから一行から三行の導きだったとする。高柳も俳句を文学に重ね合わせることで多行俳句になった。しかし石川啄木から高柳重信が大きく違うのは虚構の発見である。しかも、それは虚構を架空のままに客体化し主体を隠蔽する。
俳句は近代の個の芸術として、様式の根幹において、定形・季語・連座という伝統(反近代)を継承する。俳句の自律性(近代化)は伝統俳句と相反するのだが、季語を容認した時から個を超えていく。それは季語の効用なのだが、その共同体は伝統主義や復古調のノスタルジーを語っているのではないという。
それは自然という宇宙と感応するというのだが、それを復古的に騙る者もいるんで見極めることが必要なのか?
表現としての俳諧━━蕪村の否定表現
堀切実『表現としての俳諧―芭蕉・蕪村』から「蕪村の否定表現」
蕉風を目指して芭蕉関連の本を読もうと思って手に取ったのだが、「あとがき」で蕪村の考察が先なので「蕪村」から読めと。出版社の意向として「芭蕉」からだったのか?
蕪村の否定表現で一句目は鵜飼の爺さんが亡くなったと想像させる句で、二句めは松明(たいまつ)を消した後に花野の彼方に海が見えたと句であるが、花野が彼岸っぽくて海の向こうは彼の世に思える。これらは負のイメージを無常観で表現した句となっている。
一句目は「しらじ」で恋は知らないがという意味だが、俳句は知っている。
二句目、「水に声なき」と否定しているが草が茂っている情景(さらに夕がたの霞という幻想風景)
三句目、燈火を消したからこそ花の匂いが引き立つという句。
4句目の「師」は芭蕉で芭蕉の死を想像させながらも新たな道が示されているような決意が見られる。
レトリックとしての否定表現は俳句が消していくことによってさらに奥行きのある表現となる核心をついていると思う。この表現に気づく時、例えば見えない花の香はどこまでも広がりつつある永続性が見えてくるのである。
また一見ネガティブな要素を詠みながらもそれをポジティブな方向へ変えていく力があるという。まあ最終的には仏教の無常観ということなのだが、そのことは蕪村の水墨画も消す(省略する)ことで余白を多く産みだし安らぎの絵になっているという。水墨画の表現が色を重ねていく西洋の油絵の手法ではなく、まさに東洋の仏教に培われている無の思想なのだ。
これは神秘主義でもなく、俳句や水墨画の技術として培われてきたレトリックなのである。レトリックを否定してやたら精神性を言う人がいるが、レトリックからその世界に近づくのもありだと思う。むしろそれが生きるテクニックかもしれない。
あとこの本で紹介されている佐藤信夫『レトリック感覚』は名著です。
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