シン・現代詩レッスン32
今日は川本皓嗣『アメリカの詩を読む 』から「第2講 夢をはらむ孤独者たち」。最初ホイットマンの詩をやろうと思ったのだが、長編詩というか物語詩になっていくのでいつまでも終わらなかった。そんなことで読み進めていくと次に出てきたのがエミリー・ディキンソンだった。彼女の詩に惹かれるのは、詩=死だからだろうか?何気ない自然の中にある死を詩で描いて魅せる。ちょうど野毛山動物園のライオンが亡くなったり、吉本隆明『フランシス子』を読んで、昔飼っていた猫の声を聞いたような気がしたのだ。そんな声に応えて。
エミリー・ディキンソン『小鳥が小道をやってきた』。もともとは題名はないのだが利便上、そういう場合は詩の最初の行を題名にするといことだった。こういうのもありだな。
英詩だとアクセントがリズムを作っていて弱強三歩格だという。これはYouTubeで朗読を見ればわかるかな。原題はA Bird come down the Walk
鳥は象徴詩になりやすいものだった。それは実際の鳥ではなくイメージとしての鳥である、小鳥と小道とみみずの3つのものがイメージされる詩だ。─も意味があるという。一行目と二行目のあとに続く言葉があるはずなのだ。それは三行目が8音節ということなので、6音節のあとの──は、8音節に合わせるためだと思う。──はみみずを表しているのかもしれない。みみずを呑み込んだので4行目は空白になるのだ。
突然、語調が変わるのは古典詩の引用だからという。声を聞いたのだ。舞い降りてきた古典詩の声が「音楽」であり、「喜び」の友であり、「知恵」の姿なのだ。ディケンソンのダッシュ(──)は意味があるという。それをみみずとしたが乙女だったのかもしれない。いや天使か。天使にすると「」の意味と通じ逢うような
三連を飛ばして4連目。小鳥にみみずの代わりにパンくずを与えるのだが、それは生の象徴(キリスト教的なパンの意味)。それは鳥に取って危険に思えたのは、自然の姿だった。みみずを呑み込むのも自然なのだが、人間の知恵を与えようとしたのか、鳥は飛び去っていく。家路に帰るのはわたしであり、彼女は漕ぎ上がったというのだからボートに乗っていたのだ。自然と文明との対立。ボートを漕ぎ上ったのは鳥の飛行の比喩だという。
「みゅう」というのはかつて飼っていた猫の名前。子猫の鳴く姿から名前が付けられた
みみずが蝶になったのか?大海原を飛んでいるのは鳥から蝶へ。
しぶきをあげて泳いでいくのは、やはりわたしなのだろう。
その自然な様子が「なおひっそりと」という姿となるのだ。それは生と死の自然な姿だろうか?