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新興俳句が残した俳句をイメージする句集

『人類の午後』堀田季何 (堀田季何第四詩歌集)

リアリティとは、
「ナチは私たち自身のやうに人閒である」
といふことだ。(ハンナ・アーレント)
一九三八年一一九日深夜
水 晶 の 夜 映 寫 機 は 碎 け た か
に始まる352 句をスクロールせよ!

しなやかに定型と親和し
たをやかに思想を突き拔ける
光の束としての俳句群
〔第三作品集『星貌』と齊しく開板〕
枝折「晝想夜夢」……宇多喜代子 高野ムツオ 恩田侑布子

「水晶の夜映寫機は砕けたか」映寫機という言葉が映し出すナチスの記憶・それは過去のものなのだろうか?「地下通路くぐりふたたび霧の中」ふたたびというのはフランクル『夜と霧』の世界がやってきたということだ。その地下通路は開かれたための通路ではなく、絶滅収容所に通じている道なのである。各テーマ詠の最初に付けられたエピグラフ(警句)と連動する俳句。海外の俳句はエピグラフと同一視されたところから始まったのだ。それは俳句が有季定型である前に詩であるということ。『星貌』と合わせて読むと新興俳句への弾圧は過去の姿ではない。

堀田季何は山口誓子を受け継いでいるのかもしれない。映写機の句は、まさにそういうことだった。

一九三八年一一月九日深夜
水晶の夜映寫機は砕けたか 堀田季何

堀田季何『人類の午後』

「砕けたか」の言い方は「映像の世紀」「パリは燃えているか」の模倣だろうか。

雪女郎、人権なき者。四句
雪女郎冷凍されて保管さる 堀田季何

堀田季何『人類の午後』

「雪女郎」は「雪女」のことだが女郎というと日本に出稼ぎに来ている女性を連想する(フィリピーナとか)。『人類の午後』は想念句を詠んだものなのかもしれない。

月光に白し吾が手も合鍵も 堀田季何

堀田季何『人類の午後』

月はディオニソスを連想されるのだが、この俳句は葛原妙子を短歌を連想する。

花といふは櫻の事ながら都而春花をいふ。(芭蕉、服部土芳『白冊子』より)

花どきの反實假想ゆるされよ 堀田季何

堀田季何『人類の午後』

堀田季何も芭蕉の法論に惹かれるのか?芭蕉の警句は花というのは古典から桜を言うが現在では都に咲くすべての花ということなのだろうか?その代表が桜だということだ。つまり都市部ではすでに桜を街路樹として自然という桜ではなく都市化された桜のイメージ、それが「反實假想」のヴァーチャル・リアリティというような、福島の桜もTVで観た桜であり、それは脳化社会の実相(写実)なのである。

寶舟船頭をらず 常 とはに海 堀田季何

「寶舟(たからぶね)」の漢字がなかなか出てこなく苦労する。旧字嫌いだ!ふりがなが欲しいよな。この句は高柳重信の多行俳句を連想させる。

船焼き捨てし
船長は
  
泳ぐかな  高柳重信

ウェルギリス『アエネーイス』の神話のエピグラフが付いていた。

うぶすなや墓から墓へ小灰蝶 堀田季何

「うぶすな」は「産土」ということで地霊(神様)のこと。小灰蝶は「しじみ蝶」。小さな蝶が墓から墓へ舞う姿が産土のようだというイメージか。胡蝶の夢のエピグラフ。

しゃぼん玉ふいていた奴を逮捕しろ 堀田季何

トルストイの『アンナ・カリーナ』からの引用で、「少し持ちこたえて弾ける。その泡はわたしだ。」のエピグラフ。それからイメージされるしゃぼんだまのイメージか。

閉館日なれば圖書みな夏蝶に 堀田季何

幸福とは蝶のやう。(ナサニエル・ホーソン)のエピ。この句は好きかも。

蠅打つや自他の區別を失ないて 堀田季何

一茶の句のパロディか。蠅追ひが村の者なら蠅も村の者(レガ族の諺)。こういうのを膠着技法とか言うんだっけ。レガ族はことわざ民族だった。

地下通路くぐりふたたび霧の中 堀田季何

V.E.フランクル『夜と霧』のエピ。「夜と霧」という言葉はナチスが反抗するものを密かに連行し消していくというもの。「ふたたび」という言葉に注意を向けたい。それは現実社会で起きていることかもしれない。それが「新興俳句」運動の弾圧と繋がるような気がしてくる。

教㑹に 流民 るみん 熟寝うまい や毛布敷き 堀田季何

エピ『クリスマス・キャロル』のアイロニー。クリスマスの箴言。キリスト教精神は貧困なる者がいるから成り立っているというような。教会が配布する毛布と共に流民を取り入れる甘い言葉か。

地下通路くぐりふたたび霧の中 堀田季何

エピのナチスが企てた「夜と霧」作戦。それはレジスタンスや政治活動家を消すための法令だった。V.E.フランクル『夜と霧』はそれについて書かれた本なのだが、闇の中に葬られたのは人ばかりではない。こうしたナチスの行為も霧の中と化しているのかもしれない。「ふたたび」の言葉から渡邊白泉の句が連想される。

戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡邊白泉

戦争と戦争の間の朧かな 堀田季何

この句なんかはまさに渡邊白泉の戦争俳句を想起させるものである。

小米雪これは生れぬ子の匂い 堀田季何

「小米雪」は「粉雪」の意味だが、それが日本で降ることの意味を考えさせられる。「生れぬ子」は戦争被害を受けた地域での子供なのだろうか?その子が現れては消える雪との二物衝動。

迷彩の馬駆けめぐる桜かな 堀田季何

「迷彩の馬」は軍人が乗る馬なのだろうか?それが桜と取り合わされるときに、馬も戦争で犠牲になったのにそのことはあまり語られない。

正方形の聖菓四ツ切正方形 堀田季何

「正方形の聖菓」はクリスマスケーキなのか?またそれが四ツ切正方形という膠着技法のような句は、マトリョーシカみたいだが、戦争の暗喩なんだろうか?

雙六に勝つ夭折のごとく勝つ 堀田季何

「雙六」は「双六」のことらしいのだが、正月のゲームなのにきな臭い言い方なのは「夭折のごとく勝つ」というスローガンみたいな言葉だろうか?新年の季語に取り合わせた軍国主義の言葉。「夭折」は死ぬことだから、これは勝っても意味のないゲームだった。

以上が宇多喜代子が上げた俳句。

戦争と戦争の間の朧かな 堀田季何

は高野ツトムも上げていた。高野ツトムは三橋敏雄の句を連想したという。

戦争と畳の上の団扇かな 三橋敏雄

この句のせいで安易な戦争句が増えたということなのだが、そういうことをお構いなしに実際に戦争は戦争は起きているのである。ただ日本では呑気に構えているだけなのかもしれない。

堀田季何の戦争のイメージの連作は、「どこでもドア」のようだと断言する。戦争俳句の連作の歴史が新興俳句の編み出した手法なのだという。

寶舟船頭をらず 常 とはに海 堀田季何

「寶舟(たからぶね)」の漢字がなかなか出てこなく苦労すると前回書いたのだが旧字を使うことの意味は、国家の常用漢字への抵抗だろうか。「宝船」の連句は日本の豊かさの象徴、それによってウランや石油といったものが運ばれてくるのだ。その欲望のシステムの中に戦争はあるのだが、それは連想されない。嫌いだ!ふりがなが欲しいよな。この句は高柳重信の多行俳句を連想させる。

蝶の胸堕す紙の上から強く 堀田季何

これは赤黄男の句の連想か。紙の上から蝶の句を詠むことは、イメージなのだがそのイメージ(戦争)から赤黄男の傑作句が生れたのである。

蝶墜ちて大音響の結氷期 富澤赤黄男

自選の解説動画があった。

歪つつしゃぼん玉デモ隊の上 堀田季何

これも上の句の連想句だろうか。

淫楽となるまで蠅逃ぐる音 堀田季何

「蠅追ひが村の者なら蠅も村の者(レガ族の諺)」のエピの連句なのだが死体に群がる蠅は一茶の蠅の句を連想させるのか?

囀れりわが ししを喰ひちらかして 堀田季何

宍は食用の肉なのだが、ここでは豚なのか?豚を屠殺するときの声を囀りと言っているのか?

猫轉がり人寝轉がる原爆忌 堀田季何

原爆忌が水俣の猫と重なってくるのは語り部の存在なのかな。堀田季何がそんな語り部に敬意を示しているのかもしれない。以上、高野ツトム選。

恩田侑布子が動画の句を上げていた。

斑蝶斑蝶斑蝶斑 堀田季何

ホーソンの「幸福とは蝶のやう」とのセッションであるという。エピグラフと二物衝動ということなのか?イメージの連想句なのでそうなのかもしれない。この口承は呪術的で曼荼羅絵図も連想させる。

陽炎の中にて幼女漏らしてゐる 堀田季何

それは恐怖から来る尿意かもしれない。恩田侑布子は郷愁を誘う性の目覚めだという。それは違うと思うな。

チアノーゼ色のペディキュア川床涼 堀田季何

「チアノーゼ色」は肺結核の血だろうか?「川床涼」は結核患者は療養生活のために避暑地などで療養する姿を連想する。「チアノーゼ」は酸欠状態に現れる症状で必ずしも肺結核を意味するものでもなく、作者がそうした色のペディキュアを選ぶという情景なのだという。この俳句の前に津村節子『白百合の崖−山川登美子・歌と恋』を読んだので結核患者とサナトリウムが重なった。

万緑を疾走する血の乾くまで 堀田季何

「万緑」の俳句は、中村草田男が有名。

万緑の中や吾子の歯生え初むる 堀田季何

そういう子供が戦争で逃げ去るイメージか?ジャングルを逃げまどう子供とか。

冒頭に戻る音盤盆踊 堀田季何

これはソ連で作られた肋骨レコードか?確かにすぐ針飛びしそうではある。
恩田侑布子の読みは面白い。作者が広島原爆で一族を殺されたイメージだという。深読みしすぎだと思うが。

人間を乗り継いでゆく神の旅 堀田季何

キリスト教の魂の入れ物みたいな感じか。神=紙とも繋がっているのかもしれない。恩田侑布子はドーキンスの遺伝子にたとえている。そこから「出雲」に飛ぶのか。そういうイメージは無かった。むしろこれはキリスト教だろう。

吾よりも高きに蠅や 五六億七千萬年ころな 後も 堀田季何

ルビによる異化効果か。蠅は生き残るのだろうか?五六億七千萬年は弥勒菩薩が悟りを開く時間だった。自然からの人間への逆襲と読む。ポストコロナ禍の秀句だという。以上が恩田侑布子選。





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