シン・短歌レッスン23
夕方撮ったからピンボケだ。
葛原妙子短歌
今日も川野里子『幻想の重量』から。
葛原妙子と塚本邦雄ら前衛短歌の分岐点について。塚本邦雄と比べた場合だが、同じ幻想短歌でも葛原妙子は生の謳歌を詠っていが塚本は否定的なニュアンスが強い。それは同じ斎藤茂吉を捉えるにしても葛原は茂吉の歌をそのまま生の讃歌として捉えるが、塚本の場合茂吉に浪漫的象徴性(それは現実世界というよりも茂吉の理念としての幻想世界というような)を見る。塚本邦雄の幻想性は釋迢空の否定された和歌の世界という幻想性に構築するものなのだろう。「築城はあなさびし」に与謝野晶子の「やわ肌の」が透けて見える。
塚本邦雄や釋迢空の幻想(象徴)短歌は、身体的なものから発するよりは理性的な創造世界なのだ。葛原妙子の身体性は、釈迢空が批評(批判ではないと思うのだが)女歌という概念を自身の身体性の引き付けて表出する理念だとする。
そこに与謝野晶子以来の女歌の身体性の継承を見出すのだと思う。ただ小林秀雄の精神とか言うとまた大和魂みたいなことになってくるから、そこを塚本邦雄らは批判するのだと思う。
それでもそういう議論がなされるから塚本邦雄にしても葛原妙子にしても自身の歌風が深まっていくのだと思う。それはやはり身体的なものもあるかもしれないが、理知的なものもあるような。
模範十首
山田航『桜前線開架宣言』より「ボーイズラブ短歌」の「松野志保」という歌人。第一歌集『モイラの裔』はAmazonで高値で取引されている。
『モイラの裔(すえ)』はパレスチナの「モイラ」の末裔ということらしい。「モイラ」はギリシア神話に出てくる運命の三姉妹。「運命」とか「寿命」とか人間の「死」を司る女神だという。そこに「エロスとタナトス」を見出すのかもしれない。それは「暴力」の世界の最中に晒されているのだ。
ただそこにホモフォビアへの抵抗が見られるのは、弱者としての「ぼく」は女性性でもあるからだという。トランスジェンダー的身体性。
「国ひとつ潰えゆく夏」はジュネのパレスチナのレポートを想起させる。
俳句レッスン
選句の楽しみ。短歌は雅で俳句は俗という。そうなのか?どちらも俗で詠んでしまうけど。それでは二人の選句を見てみよう。
十三夜を見ながら二人が会話している。かなり失礼なことを言うのだが、その親しさ。十三夜というのが満月より雰囲気あるという。
私は十三夜の月をただ詠んだだけだと思ってしまった。会話とは思わなかった。会話なんだけど。
こっちはわかりやすいか。虫食いだけど穴が開いていることで寒さを感じる。逆に暖かさも感じているのか?この俳句は「団栗」と「寒さ」の季重なりだという。けれども「寒さかな」と「かな」で強調することによって冬の団栗を詠んでいる。なかなかの技師です。
俳句の定形をしっかり決めている。「月白」は月の出始めの頃。
「落つ」は終止形。角砂糖に繋ぐには連体形「落つる」が正しいとか。そっか。終止形で読んでしまったけど連体形で繋がっているんだ。難しい文法だった。
これも定形のしっかりした句。「船足」の解釈が難しい。「喫水」という意味と取ると。まったくわからん。
沈んでいく舟と体上がっていく霜柱の対比だという。なるほど解説で納得。簡単には読み解け無い俳句も魅力的な解釈を生む。
小学の句。八百円の値段が、大根だと高すぎるのにお母さんの足だと安すぎないかという微妙な感じ。悪口でもないしそこはかとなく愛情表現。
「実柘榴」が十五夜にお供えするもの(「月」の題詠)。その柘榴の実を一つ一つ無心に食べているのだろうか?
「実ざくろや妻とはべつの昔あり 池内友次郎」の俳句があった。実柘榴と月の関係が出てくるのは、そうとう普段から俳句を作っている人かもしれない。
煮凝はしばらく覚めてしまった魚から出来るから、「愛の足あと」という冷めたしまったバロメーターということらしい。謎句は読み手の解釈生み出すということで、謎句を作ろう。プロなら読んでくれるはず。
映画短歌
今日は『バビロン』ですね。
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