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シン・俳句レッスン149


にわか雨

にわか雨は驟雨で夏の季語ということだった。今日も降ったり止んだりの天気でいまいち秋雨には遠い感じで蒸し蒸しだった。夕立は俳句では「ゆだち」となるというが「ゆうだち」でいいと思う。

どの子にも夕立の来る空地かな 村嶋正浩

夕立はけっこう名句が多いかも。

夕立や雨宿りする雨合羽 やどかり

雨合羽でも避けきれないほどの豪雨の夕立。

ネット句会反省会

今回は2点でブービーは避けられた。なかなか特選が取れないな。わかりにくいのかもしれない。

鏡花忌や はかなしらゆき墓仕舞い 宿仮

これ最高点だと思ったんだけどな。泉鏡花は人気がないのか?しらゆきは『夜叉ケ池』のヒロインだし、アニメ「文豪ストレイドッグス」でも「夜叉白雪」という技を使うだろうに。そのへんが付いてこれないのかな。白雪のように儚いという意味と「墓なし」の掛詞でもあるし、最後の墓仕舞いも白雪の舞いと墓仕舞いを掛けたのに。「や」切れがよくないのかな。三句切れになるし。「の」か。

鏡花忌の儚しらゆき墓仕舞い 宿仮

ゴミ捨て場颱風一過の傘の墓 宿仮

これは中八が駄目だったのかも。三句切れになるから避けたんだよな。佳作一点。

秋蝉の木漏れ日のなか本を伏せ 宿仮

「| 秋蝉《 しゅうせん》が難しかったかも。厳島神社に行ったときの句だが、最初下五を「物語」にしたんだよな。「平家物語」に掛けて。どうせ特選にならないのなら妥協する必要はなかった。佳作一点。あまりにも綺麗過ぎるという評だが、厳島神社だもの。詞書を入れたら良かったのか?厳島神社にてとか、今度やってみようかと思うが句会で詞書入れる人はいないよな。

今回漢字だけの句に点が集まった。

今回あまり反省点はないかな。や切りを止めよう、と定型を守ろう。三段切れに注意。だな初歩的なことだな。

高濱虚子

こう点数が低いのは虚子嫌いのせいもあるのかな。このへんをきちんとやっておいた方がいいのかもしれない。『観賞現代俳句全集』から大峯あきら「高濱虚子」。

遠山に日の當りたる枯野かな 虚子

これは芭蕉のパクリかと思うのだが、懐かしいような景色を思い浮かべるのかな。「日の當りたる」がいいと思うのだが、月じゃなくアポロ的な句がいいのか。写生句ではなく、回想句だという。日影よりも日が当たって心が安らぐ感じとか。母の情景とかまで言う。母の句だな。母というコトバを使わないで母を感じさせる句。

桐一葉日當りながら落ちにけり 虚子

ほとんど前の句と同じだが「落ちにけり」で動きが感じられる。

大空に伸び傾ける冬木かな  虚子

「伸び傾ける」だから雪の重みとか強風が当たっているのだろうな。それでも伸びようとする冬木の生命力か。

これは子規の意向に添えなかった虚子の自画像だという。子規は俳句を文学のように考えていたのだが、虚子はもっと軽いもの「第二芸術」でもいいというライトヴァース的な。

高麗人や春帆帰ること遅し 虚子

意味がわからん。高麗人は春風に乗って帰るということか?

海に入りて生まれかはらう朧月 虚子

海に映る朧月の出入りが生まれ変わるような状態だということだろうか?虚子の方法として主観的であるより自然と同感的に詠むということがあるようだ。この場合朧月に同感している。そして母なる海。

秋風や眼中のもの皆俳句 虚子

この場合秋風に同感して、通り過ぎる景色が皆俳句になるという感じ。

鎌倉を驚かしたる余寒あり 虚子

これは写生句ではないな。歴史を踏まえて鎌倉殿ということなんだろうか?虚子の考えは写生句と例えば『源氏物語』の伝統に則った句(想像句)もありということだった(子規は俳句の改革は純然たる写生句にあるとした)。このへんは虚子に共感するのだが。

春の山屍をうめて空しかり 虚子

「屍」を詠んでも景の明るさか。

湖の水まさりけり五月雨 去来

虚子の写生の方法は去来のこの句に出会ったからだという。それは自然に同調するまで観察することだという。無私の状態にする。この句は去来が普段から湖を観察していたから湖の水嵩が増しているのに気がついたということだが、気が付かないのはどっかの総理とか。しかし、これは観察というより直感的なことなのだ。子規の写生は客観的に見る絵画的手法だが、虚子の同調論は周りを見てということなのかもしれない。

ひとつ根に離れ浮く葉や春の水 虚子

離れて見えるような浮き草を観察することによって繋がっていることを直感する。それは春の水(水温む)だからということか?それは斎藤茂吉の「実相観入」に近い。

高柳重信

また夏石番矢編集『高柳重信』から十首ぐらい。虚子は頓智のようなものは嫌うけど、高柳重信にはそれがある。それは言葉遊び的な俳諧性だと思うのだ。

  一
  階
  二階
 三階

さよなら
 あなた  高柳重信

カリグラム俳句。見た目のデザインでの文字の俳句としての意味。

森の奥では
しすしすしす
ひとめをしのぶ
蛇性の散歩  高柳重信

高柳重信も蛇が好きだった。蛇の邪淫性と「エロスとタナトス」はフロイト好きか?

月が出て
閃閃と
輝る
河床の鏡 高柳重信

太陽よりも月好きでもある。

かの日
炎天
マーチがすぎし
死のアーチ 高柳重信

死の観念。

夜叉舞や

舞ひ崩れては
おらびつつ 高柳重信

ほとんど想像世界だろうな。

まなこ荒れ
たちまち
朝の
終わりかな 高柳重信

高柳重信の多行俳句はパターン性があるが、たまにこういう名句が出てくる(普遍的な)。

燃えながら
空ゆく声や

父の声 高柳重信

これも観念的だが「燃えながら/ 空ゆく声や」は戦時を連想させる。そして一行空けの「父の声」。ドラマチック俳句。

遠望の
わが山頂の

壺中 こちゆうの母よ 高柳重信

先の句と連動しているのだろう。母は遺骨。初出は「壺中のわが毒」ということは先の父の句を受けてのアイロニーなのかもしれない。

かす めきし
妻が 機織 はたお
干潟の
湖賊 こぞく 高柳重信

「湖賊」は湖の海賊。出自が海賊だったという神話性か。否定的な意味ではないと思う。「海賊」の系譜の高柳重信。

火を盗みきて
父は刑死
火を みごもりし
母は身を焚き 高柳重信

神話的物語俳句。このへんの世界が好きになれるかが好き嫌いの分かれ目かもしれない。

NHK俳句

第4週は大好きな句会。「坐す」「座る」という季語じゃない兼題。今度の句会が季語じゃない兼題なので参考にしたい。

泣かないでと隣に座る櫟の実 アルノ

口語俳句だな。言葉のセンスがいい。櫟の実が団栗の中で丸いので一番コロコロと寄り添ってくれそうだという。「と」はなくてもいいのじゃないのかな。切れななのか?

泣かないで隣に座る櫟の実

名月と虫籠の句は季重なりだよな。そういうのが取られるというのがよく分からんな。

<兼題>木暮陶句郎さん「凩(こがらし)」、高野ムツオさん「眼(め)」
~9月30日(月) 午後1時 締め切り~
<兼題>堀田季何さん「息白し」、西山睦さん「聖夜」
~10月21日(月) 午後1時 締め切り~

もうクリスマスかよ。



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