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シン・現代詩レッスン90

北村太郎「夏の果て」

この詩も『新選 北村太郎詩集』から。北村太郎の最初の詩集が発表されたのが四十四歳の時で、「荒地派」の中ではかなり遅い。本人はまとめるのに時間がなかったと言うが、それまでは詩集を出す必要もなかったのだと思う。

例の不倫事件で金が必要になったのかもしれない。新聞社を五十四歳で退職するまでは三冊の詩集を出したが退職後は九年間に7冊の詩集を出したという。1986年の鮎川信夫のエッセイではまだまだ恋愛詩を書くと宣言している。北村太郎の詩の特徴は難解な言葉を使わずに日常の情景をユーモアとして描くというのがあるという。それが時にはブラックになるのだろうか?

夏の果て

立秋はとっくに過ぎてまもなく白露である
わたくしは昼間わかい母親が
赤ん坊を十四階の踊り場から投げ自分もあとから空中に跳び
地上に激突して「ドサッ」と音がしたというニュースや
ポルトガルの左翼陣営が複雑に分裂して幹部がののしりあっているという   
 外電を
くり返し細かく詠んで
肉眼がめがねにくっ着いてしまったかのように疲れた

「夏の果て」なのに「白露」である。白露は9月7日だからまだ残暑時期だった。なんか氷の世界を連想してしまった。白い息とか。昔の季節感と今とはだいぶ違うのかもしれない。そんな気候変動の狂いも詩の意味を持っているのかもしれない。

そしてニュースのデタラメさだろうか?新聞でニュースを追うのも疲れたのかもしれない。朝にニュースをチェックするようにはしているが見出しを眺めるぐらいで興味を引かないニュースは読まなくなっている。新聞を取ってないネットニュースの無料性故だろうか。興味がありそうなのはあとでYouTubeとかで見たり。もうニュースにも驚かなくなっているのかもしれない。当事者意外はどうでもいいことのように思える。

蛍光灯をつけると不意に
大きな虫がわたくしの腱にふれた
不器用で大ざっぱな飛び方でそれはゴキブリだった
ひどい夏のおわりじゃないか

ニュースよりも現実のゴキブリの方が恐怖なのだ。特に不意に現れるゴキブリには驚かされる。確かにゴキブリは不器用で殺してくださいといわんばかりの現れ方をするので新聞紙で叩いたり洗剤をかけて殺す(台所に出現する奴ら)。仏教徒でもないのでそれに罪を感じたりはしない。コックローチを吹きかけるとか、昔はそういうこともあったが、最近はそれほどゴキブリを見なくなったような気がする。下の階ではないからか?たまに階段とかで見かけるか。ゴキブリがいるということはそれだけ自然も残されていると思うのだが。

わたくしはからだじゅう花粉だらけになる蜜蜂や利口な蜘蛛が好きで
虫は虫でもなんというひでえ虫だとゴキブリを呪った
(略)
あしたの予定をあれこれ考えていると無関係な一行がわたくしの舌にもぼる
「ゴキブリの死はいつでも惨死」

「わたくし」という言い方が気になる。会社で上司に使う言葉みたいだ。ほとんど「わたくし」なんて丁寧な言葉は使ったことがなかった。一人称の使い方もなかなか難しいのだ。いつもだと自分と使うのだが、ある日関西では相手のことを自分っていうんだえといわれてから注意している。軍隊用語的でもあるし。俺とか僕は馴染めないのだった。それで中性的な「わたし」がいいと思うようになった。別にそれはおかしくないだろう。一時期女子が「ぼく」とか「おれ」と言っていたのは何の影響だろうか?どうでもいい話だが。一人称問題はけっこう深いテーマかもしれない。

それでゴキブリである。自分の書く一行をゴキブリに喩えて、最後の決め言葉だった(捨て台詞か?)そこがおかしいのだろう。今日は捨て台詞を使う詩だな。

言葉の果て

言葉の一つ一つに傷ついたり喜んだり
それが詩というものだろう
無関心ではいられない
例えそれがゴキブリであっても
ゴキブリより毛虫の方が嫌いだった
刺されたことがトラウマになっている
ゴキブリは直接的には害がないように思う
病原体を運んだりするのだろうか?

ゴキブリを言葉としそれを惨死という言葉でいう
変換して気づくのだけど残滓であったり残詩であったり
ゴキブリはスタイリッシュなんだ
かっこいい車はゴキブリの流線型をしている
それに飛ぶことも出来る
なのになぜか嫌われる
嫌われ遺伝子のせいだろうか?
人類が生きていた時代からゴキブリを嫌っていたのか
いや、そんなことはないと思う
ある時からゴキブリが嫌われ始めたのだ
ゴキブリホイホイが出来てからか
罪づくりな商品を開発する人間
アリ 全滅 シャワー液とか
人類だったら大事だ

それでも人は虫を殺せる

やどかりの詩





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