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究極のご臨終かな文語体

『究極の俳句』髙柳克弘 (中公選書 118)

俳句では、たった十七音しか使えない。だから俳人は劇薬を扱う化学者の注意深さでもって、言葉の一つ一つを吟味し、どう組み合わせれば最大の効果を与えるかを戦略的に思考する。俳人とは疑りぶかい言葉の化学者なのである――。俳諧を芸術へと高めた芭蕉以降の数々の名句を味わいながら、その根底にはつねに、常識への批評精神にもとづく新しい価値の創造があったことを明らかにする。俳壇の気鋭による創見に満ちた俳句論
目次
序章 言葉は信じられない
第1章 季語を疑う
第2章 常識を疑う
第3章 俳句は重い文芸である
第4章 重みのある句とは―その題材
第5章 重みのある句とは―その文体
終章 俳句は時代を超えられるだろうか

出版社情報・目次

 俳句も短歌に押され気味で岐路に立たされているのだと思う。そのことを踏まえて「究極の俳句」という極北の文学性を求めるのか、あるいは短歌のように一般へと開放していくのか、このへんは難しい問題で、個人の思いもあるだろうから一概には言えないのだが、このスタイルは今は流行らないのだと思ってしまった。結局芭蕉の俳句が一番で、そこに中央集権的な権力機構が働いてしまうのではないか?それは文語というものを最後まで疑い得ない著者の態度であろう。そこのところがわかりにくいというか、テーマ性を持てということはいいと思うのだが。
 ただ文語も時代と共に変化して、口語と文語の入り混じった俳句が多くなるだろうということは指摘しているのだ。文語という伝統が本当に俳句にとって一番の核なのか、さらに見極める必要があると思う。再読課題。
 否定神学的なのかなと思った。一応そういう神を否定しながら、ここでは子規派以降の虚子の俳句理論、芭蕉を神と祀ってしまうというような。ここの理解が例えば芭蕉の時代では俳諧(発句)で、近代以降の俳句にしたのは正岡子規だという考えもあるのだ。写生俳句(キリスト教)に対しての主題俳句(ユダヤ教)という神を巡る戦いのような。

第1章 季語を疑う

俳句は二物衝動。一物仕立ても、「もの」と「状態(動作)」の「取り合わせ」が新規なのだ。

風吹いて蝶々迅く飛びにけり  高野素十

「蝶々」と「迅く飛び」の取り合わせ。

チューリップ花びら外れかけており  波多野爽波

「チューリップ」と「花びら外れかけて」の取り合わせ。

西脇順三郎の詩論

新しい関係を発見することが詩作の目的である。ポエジイとは新しい関係を発見するよろこびの感情である。この喜びの感情のことを快感と昔からよんでいる。また美といったり、神秘といったり、驚きといっている。

白げしに蝶の羽もぐ形見哉  松尾芭蕉

別離の感情を「蝶の羽もぐ」という言葉で詠ったもの。「白げし」に出会ってから儚さ。エロスの本質は、究極には死にゆくこと。「エロスとタナトス」を表現した究極の俳句である。
 季語に異質な言葉をぶつけて新たな季語の美を創出する。「虚実」というところの「虚」のリアルさ。季語の既成の美意識や価値観を疑い、新たな出会いとしての驚きを見出す。「世界」に向き合う「最小限の身体」を置く芭蕉の究極の俳句。

この道に行く人なしに秋の暮  松尾芭蕉『其便』

第2章 常識を疑う

 俳句の「俳」は、わざおぎ。つまり自分でない別の人を演じるということ。
 俳句が「非常の文芸」と呼ばれるのも、時として人としての身を超えることがある。神(自然)の視点。俳句は元来人間中心主義にはならない。天上的視点。
 シェイクスピアのフールという騙り手。既成の美や道徳に左右されず、疑いを持って物事の本質を見極める。第三者の視点。作品は作者だけのものではない。

第3章 俳句は重い文芸である

 ここがちょっと疑わしいのだが、重いということは「テーマ」性を持てということらしい。季語や言葉に寄り添うのでなく、自分の内にあるテーマ性を出すこと。それは文体ということかもしれない。でも、それは重いということではないよな。芭蕉の句を見ても、重いよりは軽い。それは不真面目ということでなく漂流する軽さというような。重いというと留まるが芭蕉は留まらない。そこに言の葉を散らすだけだ。

猿を聞く人捨て子に秋の風いかに  芭蕉『野ざらし紀行』

 ドストエフスキーのアリョーシャに対峙するイワンの言葉を上げているが、ドストエフスキーの散文の重さと芭蕉の韻文の軽さを同列に述べるのは無理があるような。芭蕉の晩年に「軽み」に到達したことも触れていた。芭蕉の晩年でも重いテーマを詠んだとされる句も「軽み」でいいような気がする。季語以外のテーマ性を重いとするのだ。

この道や行く人なしに秋の暮  芭蕉『其便』
この秋は何で年寄る雲に鳥   芭蕉『笈日記』

 主題があるからと言って重い句とは言えないと思う。その芭蕉の境地が絶唱とされる以下の句である。

旅に病んで夢は枯野をかけめぐる  芭蕉『笈日記』

 重い死を夢に変換しているのだ。死は重いかもしれないが、夢は重くはない。

原爆を許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ  金子兜太『少年』

 原爆は重いが蟹のあゆみは軽くないか。「かつかつ」とあるが以外に早く瓦礫を走っているのではないか?

上着きてゐても木の葉のあふれだす  鴇田智哉『凧と円柱』

 これも存在の軽さを詠んでいるのであって重い句でもなかろう。

 折口信夫が古典和歌の「無内容」について語った言葉も重さではなく軽さである。

たとへば雪──雪が降つてゐる。其を手に握つて、きゆつと握りしめると、水になつて手の股から消えてしまふ。其が短歌の詩らしい点だつたのです。

『俳句と近代詩』折口信夫

第4章 重みのある句とは―その題材

 辞世の句というを重みのある句としているんだが、確かに死は他者にとっては重いのかもしれないが、それを作った本人はどうだかと思うような句もある。それに本人は辞世の句と思っていなく、たまたま作った句が辞世の句とされてしまうのがあるのだ。芥川龍之介の辞世の句とされる

水涕や鼻の先だけ暮れ残る

 たまたま芥川龍之介が風邪を引いて最期に残して自殺してしまったので、これが辞世の句とされているのだ。本人はまったくそんなことを思ってなかったのかもしれず、むしろ軽みの諧謔性の句だと思うのだが芥川の辞世の句だと重く考えてしまう。

 また小林秀雄の言葉を引用するところがこの人は軽みをわかってないんじゃないかなと思うのだ。

音楽が音楽に袂別する異様な音(小林秀雄「モオツァルト」)

 モーツァルトの『レクイエム』が最期の作品になったからモーツァルトを重い作曲家のように描くが、そんなことはなくこの『レクイエム』も人の依頼によって作られたのだから重くするのが当たり前で、軽快な音楽にはしないだろう。その軽快な音楽を、キリスト教に反するアラブ的な「トルコ行進曲」も作るのがモーツァルトであって、「レクイエム」だけに拘ってしまうのは何もわかってないのだと思う。

 芭蕉も晩年に傾倒した西行に結びつけすぎで芭蕉が影響を受けた、それも晩年に、ひとりにすぎず、芭蕉の俳句全体をみるならばやはり「軽み」がポイントになるだろう。それは「重み」の反対の言葉で、白黒と決着をつけるつもりはないが死に近づけば重みを身につけるのは良くあることではないのか?

 俳句が俳句だけの伝統だけで孤立するのは駄目なことがわかっているのだから、アニメに引用されるのも他のコラボ作品となりうるのも「重さ」とは対極にある「軽み」だから出来ることではないのか?

第5章 重みのある句とは―その文体

 ここで「重み」ある文体として上げるのが「文語体」なのである。確かに俳句の音韻には文語の方が収まりが良く定形五七五が強固な伝統ならばそうすればいいだけのことであって、実際には定形も崩れてきているし、口語による俳句もつくられつつあるのだ。それは短歌による俵万智的な強烈な存在が出てこないだけであって、それらの試みが駄目だったわけではなく(現に新興俳句から自由律俳句には名句も多い)、伝統俳句に受け入れられなかっただけなのではないか?
 このまま伝統俳句の中でだけやっていればいくら夏井いつきが広報活動をしようとも夏井いつき一派だけの俳句だけが生き残るだけなのではないか?それは俵万智が現れたが同時に穂村弘のような俵万智の口語短歌とは一線を画す短歌の潮流が出てきた短歌とは違う。俳句も一元的なものではなく、様々なスタイルが出てこなければ発展はないだろう。



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