シン・俳句レッスン107
菜の花
俳句ではありきたりの季語かな。
これを越える名句はあるのかな?
これも斬新だな。写生句ではないけど。今日の目標句。
今朝の一句
字余り過ぎか?
整えた。「なくて七癖」が諺だった。こういうのは良くないのだ。
もうあの世しかないというような。
菜の花は他の作物の肥料になるために利用されるのだがその最終形態が宅地開発なのだろうか?という象徴句のつもり。
文芸選評
選者は数々のタイトルホルダーだな。こんな動画もあった。
まさに今が旬の季語だったわけである。
NHK俳句
作品批評
角川『俳句2024年2月号』を借りてきたので読んでみる。高橋睦郎50句は、タイトルの漢字が読めないからパス。読めない漢字は探すのも苦労するから時間ばかりかかってしまう。たいてい難しい漢字を使う俳人とは相性も悪いので、深い意味はない。
行方克巳「近松忌」
近松好きだから、少しは読めるかな?
心中の歌だと思うが「穴惑」がポイントか?季語だった。秋の彼岸過ぎにも穴に入らず冬眠しない蛇ということだった。生き場のないどん詰まり感か?
無頼系俳人かな。「落葉籠」は堆肥を作るために入れておく籠ということだ。
堆肥になるのなら菜の花でもいいかなと。
「虎落笛(もがりぶえ)」と読むのか?難解漢字を使う人だな。季語になっているが。虎の形をした笛かと思ったが、木枯らしの別名みたいな。
『源氏物語』の「須磨」のシーンを連想した句。後に「呼べよ、嵐」と続くのだが省略した。
これは納得する句だった。暦が入るのは使えるかも
克巳がいつも克己になってしまう。そうかそれで蛇なのか?スパンコールが無頼系だな。歌舞伎町系か?
この句は好きかな。着物を着ている感じ。
タイトル通りの俳句だった。
津川絵理子「正午」
毛筆の試し書きというか書き初めか?上手いな。
つくろうとしてつくったのではなくどうしようもなく黒になってしまった気持ちか。中七は華やかなイメージだが実は黒い。これも上手いな。
これも上手いな。上手すぎるかも。これは好きな句だった。
毎日散歩して俳句を作るという。そういう鍛錬が大事なのか?
垣根の枯葉を掃除しているのか?よくわからんが、そんな「正午」なんだろう。
「入れ子型の俳壇の断層──昭和三十年代後半」
川名大『昭和俳句史』から。俳句理論によって旧派(伝統俳句)と前衛俳句の断層は、俳壇にも俳人協会と現代俳句協会の対立という構造を生み出した。
大体ここを読めば現代俳句の流れは理解できるかもしれない。その分裂の元になったのが金子兜太「造型俳句」と中村草田男の季題と十七音という伝統的な詩情が俳句という文芸であるということだった。十七音については、それが奴隷の旋律だという五七調からの逸脱。いまでも自由律というせきしろが頑張っている流派があるのだが、どうなんだろう?
短詩と俳句の違いというか、確かに山頭火や放哉は自由律俳句を確立したのだが、その後継者はせきしろということなのか?と思うと疑問に感じる。せきしろの自由律は短詩ということでもいいと思うのだ。そこに俳句性があるとしたらなんだろうか?季語なのか、それとも日本人に伝わる自然観なのか?とりあえず自由律はここで学ぼう。
やはり俳句性は定形にあると思うのだ。自由律や多行俳句に挑戦してみたが詩との違いが見いだせなかった。金子兜太も定形であることは支持しているようである。多少字余りや字足らずはあるかもしれないが。
問題は季語性だった。無季を認めるか、あるいは季語の代わりになるような事件性を俳句に認めるかということである。例えば東日本大震災なら3.11 に起きた共通の事件性は季語に成り代わると思うのだ。大震災ならどうだろうか。関東大震災や神戸の震災もあるが事件性ということで季語に成り代わると思う。渡邉白泉は「戦争」や「労働」を季語に代わりうるものとして捉えていた。事件性で共感覚を得ることが季語性と変わらないのではないか?それは内面世界を掘り下げるという運動と通じるものがあるのではにないか?
それと俳句が写生であるという正岡子規以来の写生論。そこに高柳などは内面の「象徴」性というものを持ってきた。金子兜太「造型俳句)の欠点として、象徴(隠喩)を見立て(直喩)と混同しているというのがあったが、とりあえず比喩的表現は俳句でも詩でも有効ではないのか?
高柳の説に和歌の伝統としてある「見立て」と「象徴」を一緒にし、隠喩ているのではないか?というのがある。それは「見立ては」は文化的社会的コードによる共感があり、島津亮の社会詠俳句に見られるように当時の反権力運動というコード化の中で組織と個人というイメージされたもので似たような表現が多く見られていく。そこに反権力闘争ならばなんでもいいのか?みたいな、結局は個人の表現が組織の中に組み込まれてしまうシステムとしての従来の俳句と変わらないのではないか?という疑問。
ただ理念的なことよりも優先されるのが経済理論なのだ。俳人協会と現代俳句協会の対立もジャーナリズムという場における、例えば新聞投稿欄でもそこにいつまでもベテランが居座っていては新人の台頭はない。何よりも月刊誌『角川 俳句』の角川源義の暗躍が大きいようだ。角川源義は短歌雑誌も作っているのだが、短歌は『短歌研究』という中井英夫の前衛短歌路線の後塵を拝した。その二の舞を踏まないようにいち早く俳句の革新性を摘んでいったのではないかと思われる。俳人協会の設立は角川源義中心になされたという。そして無季俳句や前衛俳句への切り捨てが行われたのである。
その論調は何よりも伝統俳句の継承でなけらばならないというのは、今の『角川 俳句』の紙面からも伺われるのではないか?さらに『現代俳句大系』というアンソロジーの意図的な無季俳句や新興俳句系の排除はその例だという。それに対抗してそうした変更を修正して作られたのが現代俳句協会の作成した『現代俳句ハンドブック』だという。また俳人協会は「俳句文学館」の設立、運営など現代俳句に力を及ぼしているという。
やがて前衛俳句側でも内部分裂が起きてくるのは、東京と関西という地域差なのか、高柳重信のより内面の追求としてヴァレリーの詩論(たぶん小林秀雄とかそんな感じだ)を持ってくるのだ。精神性みたいな、象徴性が今ひとつわかりにくくなるのはそうした精神性のような美の観念なのだろうと思う。一方を加藤郁乎代表とするのは俳句の戯作性の言葉遊びの世界だ。それは音楽的遊戯とも結びつくとされるのだが、高柳はそこに精神性を求めていくのだ。俳諧性の違いかな。何も俳句にそこまで求めなくともいいんではないかと思う。無論そうした精神性を求めた句は素晴らしいのだが。
それは芸術がより秘教的になり大衆と離れていくものだと思ってしまう。そこに芸術家だけで理解できるものだけが理解すればいいというような難解句が生まれてくるのだと思う。それは加藤郁乎などが求めた口語性とも逆を行く。文語でいつまでも古語に寄り掛かる世界は秘教的である。それは短歌の塚本邦雄とかにも言えることなのだが、最終的には俵万智の口語短歌に駆逐されていくのだと思う。口語は空海の密教ではなく親鸞の念仏なのだと思う。現世に救いを求めるのにも、密教的な小乗仏教的なものと念仏的な大乗仏教的な道があると思うのだ。口語は大乗仏教的な道を模索するのではないか?