「眠らない樹」とは何か?
『短歌ムック ねむらない樹 vol.5』
特集1短歌における「わたし」とは何か?
最近気になっていた短歌の「私性」の問題。それは結社で暗黙のルールとして、歌の背後には「わたし」の存在(視線)があるということだった。
寺山修司の虚構性短歌から入った者としては、いまだにそんなことをやっているのかと思ったが、この短歌における「わたし」性はけっこう根深い問題だったのだ。日本の詩歌全般にかかわる問題であり、『万葉集』からの伝統なんでと言われてしまうとちょっとなとは思う。それが敗戦によって日本の短詩型の問題。定形で共同体に自我を叙情性に同調させてしまうのはどうかという意見が外から出てきた。
それが敗戦によって日本の短詩型の問題、定形で共同体に自我を叙情的に同調させてしまう。例えば日本の演歌調歌詞とかの日本のふるさとというような。その批判が敗戦時に出てきて前衛短歌の虚構性短歌も作られるようになった。しかし、現代は最近の文学全般的な流れか保守化していく傾向にあり、再び内輪だけの世界になりつつあると理解した。
特集2学生短歌会からはじまった
例えば、「学生短歌会」の特集は定年過ぎに短歌に目覚めた者にとっては内輪以外の何ものでもないと感じてしまう。最近の短歌がそうした若い世代によって拡散しているのは事実なのだが、それは日常詠の中に潜む閉鎖性、同調圧力的なものを感じないわけにはいかない。短歌が結社社会やこういう大学の短歌会だけの世界ならば、閉鎖的と思われても仕方ないのじゃないか。あとビジネスの問題も在るのだと思う。批評性よりも売れてなんぼの世界。最近映画のツイートなんか見ると映画には多くの資本と人員で成り立っているのだから、安易な批判はするな的な意見がはばを利かす。短歌界のなかでも出来るだけ共感する部分を観ていこう。そうやって育てていこうとするのだが、それは売れ線だけなのである。
特集3くどうれいん
その見本とも言うべき特集が「くどうれいん」とひらがなで表記するアイドル歌人だった。実力はあるのだろうけど売り方がアイドルだった。そういえば俵万智に似てないこともない。なんだろう。第一回笹井宏之賞の柴田葵ではないのか?正直彼女ではアイドルにはならないからだと思う。ただ彼女の短歌は面白いと思うのだが、「わたし」が短歌に直結してしまうのかな。「くどうれいん」という歌人はみんなのアイドル的な作られていくイメージなのである。
この号で一番おもしろかったのは、かつては投稿歌人だった「冬野きりん」がプロレスラーになって「ハイパーミサヲ」になったことかな。そこには短歌世界で生きてはいけないものを感じてしまったから別の表現を見つけたのだろう。短歌界に居ないのは惜しい人材だとは思うけど