シン・短歌レッスン161
松下竜一『豆腐屋の四季』
東アジア反日武装戦線“狼"部隊の死刑囚大道寺将司との交流を描いた松下竜一『狼煙を見よ』で牢獄で回し読みされたのが、『豆腐屋の四季』で豆腐屋の著者が短歌と豆腐を作りながら社会悪に目覚めていくという短歌エッセイで興味を惹かれた。
主に新聞投稿短歌のようだが、最初に作った短歌が朝日歌壇で近藤芳美に選歌されるなど、なかなかの才能である。わかりやすいし、新聞投稿なので社会変化も伺える短歌エッセイとしては良書なのである。
初めて作った短歌がこれかよ。ちょっと信じがたい。文語だし豆腐と泥の対比の心模様、そして夜明けに繋げている。出来過ぎ君か?
息子が捨てようとした豆腐を父がもったいないと言って店に出そうと切っているのだが、その手が怒りで震え豆腐も歪んでいると歌。五島美代子選。
父であり豆腐造りの師でもある零細企業の姿。今だとベッチャー企業だから豆腐造りより広告造りを頑張りましょうとか、ネットの宣伝力ですとかなるのか?ここは昭和世代の家業の姿が顧みれる。
NHK短歌
「光る君へ」に食指気味だった。NHKは宣伝のためでもあるんだろうけど、こうもヨイショばかりの発言には反発を感じてしまう。まひろと道長のラブシーンでのギターサウンドはそんなにいいか?変わっていると思うが何が「平安のギターサウンド」なんだ。普通にロック・ギターなだけじゃないか?それならフラメンコ・ギターでもなんでもいいのじゃないかと思った。音楽は嗜好性が高いからな。
冬野ユミさんの眼鏡が「ざーます」おばさん眼鏡で笑ってしまった。俵万智といい勝負だな。「光る君へ」のPTAおばさんたちみたいだ。ヒコロヒーはPTAおばさんに虐められる担任という役どころとか?実際にそういう場面はないのだけど。
あとまひろの秋の和歌もそんなにいいとは思わない。
秋に鹿がやはり現代では陳腐な気がする。鹿というと観光地にいる餌をねだる鹿しか思い出せない。
声に出して読みたい令和短歌
『角川 短歌2024年5月号』から「声に出して読みたい令和短歌―韻律の豊穣」。ネットベースの短歌が多いので、自分の短歌も声を出して詠むということは少ない。文字ベースでデザインとして短歌を見るようになったのもおおきな変化か。短歌の伝統としての皇室歌会とか、『光る君へ』での短歌とか声に聞くことが多くなったのか?声の短歌といえば、「絶叫短歌」の福島泰樹だろうか?その福島泰樹が選出した短歌。
大森ゆかり『カミーユ』は読んでみたいかも。最近文学を「ファザコン」と「マザコン」で分類することをしていて、自分の好みは「マザコン」性にあると発見したのだった。この下の句はまさに「マザコン」性があると思うのだが、それは大森静佳が女性なら「再生産」を言っている。そこに上句の「五月は鏡のように深い」というのは闇なのだ。「五月闇」という。
この短歌だけでは母か父かわからないが、福島泰樹の批評では母だという。これも「マザコン」短歌か?
これは父母関係ないが「大道寺将司」に興味があったので、福島泰樹の絶叫短歌が聞こえてきそうである。
一ノ関忠人について追記。
その後病気を克服して生き延びたのか?消息不明である。このまま滅びゆく男気のある境涯短歌を読んでいるときは褒めそやされて、それ以降は無関心となる。そんなに死に期待してたのか!と思ってしまう。なんかおかしいと思うのだった。
「眼で聞く音ふたたび」河野美沙子
彼女は短歌を音読することがなく「眼で読んで感じる音=韻律」という選出基準。
57577の定型を外しているが31音に収める。そのへんが技術なのか?リフレインの効用。秋でワンピースは終わるのだ。それが花のようだという。斬新な短歌。
「朗読が聴きたい短歌」林あまり
林あまりは坂本冬美「夜桜お七」の作詞家ならば歌が聴きたいに違いない。
それは逆説なんだが、そこに孤高性の裏声が響くのだった。
尾崎豊の歌に共感したのだがすでに恥ずかしい時代になっていた。もうひと回りすると懐かしくなると思う。
黙読の声と転調について 魚村晋太郎
岡井隆は黙読の中に声が聴こえると言ったという。それを「聴覚イメージ」と呼んで短歌の大切な要素であるという。下の句の転調がキーポイントだという。
これも定型を崩して短歌(三十一音)に収めようとしている(一字字余り)。ただこれはよくわからんな。きみはソフトクリームなのか?ソフトクリームが草の上に落ちるとか。ミント系のソフトクリームか?
すでに俵万智を超えて、口語短歌のオーソリティなのか?
二つの意味 辰巳泰子
なんか模範的な答弁で作者の声と自分の声があり、他者の作品を味わうときは役者のようになるという。
タイトルの『 阿婆世』は岐阜地方の方言で「あばよ」の意味だという。
あまりいいとは思わないのは「生きがたく死にがたく」の対句だろうか?これは震災歌だという。だから力強く読めという指定。これはあとで「当事者性と批評性」で川野里子を取り上げたい。
歌は響き、あるいは祈り 鈴掛真
このぐらいの世代だと模範解答的。
俵万智がTwitterがXに変わろうが関係なくXを継続しているということ。言葉が軽いんだ。それがバズったと騒ぐくせに。
本当にこれを声に出したい短歌なんだと思っているのだろうか?批評性がないように感じる。
声と短歌の無限の世界 野口あや子
朗読というのは歌人にとってステイタスでありたいていの短歌は沈黙の内に消えていく。そこがプロとアマの違いか?
短歌は自己肯定の文学で、変わった子でも受け入れる度量が必要なのかも。
いつまでも判断保留。それが今の時代に合う。下の句のひらがなは読みにくい。
当事者と批判性
「そのような問ひかけを有さないこと 佐藤通雅」に照らし合わせれば
先程の川野里子の短歌は、
自分自身は安全地帯に居ながら余計なお節介というか、「土地を離れず」は川野里子の感情であり、被災者の感情とするのはどうかという。「いさなとり」という老人の土地を思う気持ちなのか?当事者の生活は単純なものではない。しかしそこに言葉を与えると一つの流れが生じる。短歌が和歌を源流とするのなら、そのようなことだ。これは祈りの歌なのだろうか?
臨場感、アイロニー、比喩 桑原憂太郎
当事者性から抜け出て短歌が普遍化していくのは、「臨場感」「アイロニー」「比喩」のちからが必要だという。
「臨場感」
「はた」と一泊置いて「をさなごの号泣」、それがショッピングであるという恐怖感。
「アイロニー」
「アイロニー」は難しいな。内輪でしか通用しないよな。これは本心かもと思ってしまう。皇學館大学の講師が詠む歌か?
「比喩」
黒木三千代は時事詠を詠むのが上手い歌人だという。「夕刊紙」というキヨスクで男性を対象にした新聞ということだ。
時代への警鐘 松本典子
川野里子「Rainy Pain」は三十首からなる連作集でイスラエルのガザ攻撃を詠む。ベトナム戦争時、空爆を雨に喩えた歌がヒットしたのだ。たぶんそのことを踏まえている。
SNSの映像に答えたものだという。ベトナム戦争時はTVが伝えたが今はSNSの画像が流れてきて、忘却していく。そのためのつぶやきでもあるのかもしれない。どこか抒情歌のようだが、歌人ならではのとっさの反応だったのかもしれない。
それに比べて黒木三千代は、長期的なイスラエルとパレスチナの関係を捉えて理知的ではあるのか?
全ユダヤ人敵に回してもという感じだけどするどい一言だと思う。「アウシュヴィッツ・コンプレックス」って確かにあるかもしれない。日本人の「原爆・コンプレックス」は綺麗に政府によって露払いされているが。
SNSや短歌雑誌に時事詠を載せるということは当然あるべきなんだろうが、それを歌集のテーマとして出版する。渡辺幸一『プロパンダ史』は、2013-23年までの時事詠であるが、面白い。
そういえばマーク・リボーのアルバムもプロパガンダ史だった。