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『卒塔婆業平』(その1)
「ちょっと桜の切株に座っている爺さん、不審者っぽいよね」
そう言ったのはケイである。私はケイがアゴ指す方向を見た。確かに身なりが変な老人がぶつぶつ何かを言っていた。徘徊老人のニュースを見たというか、私の祖母も徘徊老人でホームに入っているのだった。
老人に近寄って声を掛けることにした。
「あの~」
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
老人は確かにそう言ったのだ。
「そうそう桜は切っちゃたんだよ。もう桜は見れないね。だから帰ったほうがいいよ」
とケイが言う。
いや、違う。そういう意味じゃないのだ。私はこの歌を知っている。でもとっさに在原業平の和歌だとは思はなかったのだ。
「警察呼ぼうか?ベンチも最近流行りの排除アートだしね。そんな腐りかけた切株に座っていると汚れるよ」
ケイはスマホを取り出し警察に通報しようとしている。
「待って、私この人知っているかも」
待ってどうなるものでもないのだが、もう少し様子をみるべきだと思ったのだ。
月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一つはもとの身にして
「おじいちゃん、夜までここにいるつもり?」
ケイは明らかに不審者扱いだ。実際に不審者なんだけど。
そのときふと歌が蘇ってきたきたのだ。知らずのうちに口づさんでいた。
花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせしま
そうなのだ。私は小野小町の末裔で白百合女学園一年短歌部所属小野マチ子だった。「子」は古いのでマチと呼ばれている。まあね、漢字で書くと「万智」かな。
「なんで知らない人と会話するのよ」
ケイコがそう言うが自分だって会話しているじゃない。ケイコだって「子」を隠しているのだ。だからケイと呼ばせる。
つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを
すると業平らしき老人が再び和歌を吟ずる。私は確信したのだ。
「だからどこから来たのか教えてくれれば連絡するから」とケイが言う。そんなの無理だ。だってこの人過去からここにやってきたのだから。
思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを
また勝手に歌を口付さんでいる。私がそうしたいのでなく、勝手に歌を口ずさんでしまうのだ。ケイは不審がって私に言う。
「あんた宇宙人なの?へんな言葉でお爺ちゃんと会話しないでよ。こういうときはじっと聞き役に徹するのが老人介護の鉄則でしょ。授業でやったでしょうが。」
「それにその歌私でも知っているよ。マチの家の玄関に色紙があったよね。小野小町の歌だって、あんたの婆さんが自慢していたじゃない。」
ケイは仕切り屋だから、私の中の小野小町が和歌を吟ずるのを許さない。それもそうなんだけど。つい出てしまうんだから仕方がない。これも夢なんだろうか?