シン・短歌レッスン160
シュルレアリスムと短歌
『角川 短歌2024年9月号』から特集「シュルレアリスムと短歌」
シュルレアリスム誕生から100年ということだった。厳密に言うとブルドン「シュルレアリスム宣言」から100年ということだ。まあ、やたら100年祭が多い昨今なので、細かいところはこだわらないで先に進む。「シュルレアリスムと短歌」である。前川佐美雄の古賀春江から刺激を受けたシュールレアリスムから写生した短歌は写生句であってシュルレアリスム短歌ではない。
最初の歌はロートレアモンの「ミシンとコウモリ傘」の写生。二首目はマリネッティの「未来派宣言」の写生句であった。前川佐美雄の価値はそれで下がることはなく、昭和初期のモダニズムを導入したことに価値があるのだと三枝昂之は言う。でも本質的に無意識の発見というのと定型の意識的な歌では決定的に違うと思うのだ。だから弾圧が起きるとその運動も消滅して行ったのか(地下組織で動いてたというのはなさそう?)。
俳句の世界では後になって阿部完市のLSD実験俳句とか有名だが彼は精神科医だった。そのような例を上げると加藤克巳『球体』となるのかもしれない。
これはブルドンの宣言から十三年後に「超現実的な手法を用ゐる」と書いたイメージ短歌だという。まだ「的な」という準備段階であり本格化していくのはその後の『球体』だという。
一字空けや定型に収まらない感じは幾分シュールっぽいか。
さらに逝っている歌が次にあった。
これは結構無意識的かもしれない。ボタン穴の虚無へ。『球体』は戦後の前衛短歌の頃に出てきたので塚本邦雄の後に出てきたようだ。
絵に描いてあるようにシュールだが、これも塚本は意識的にダリ風にイメージしたのであり、無意識的とはいい難い。
短歌の場合上句はシュールに成りうるが下句は上句に合わせて意識的な作用が働いてしまうと思うのだが、最近の女性歌人たちは奥せずシュールな作品を作っているようだ。
上句が深層心理に入るこむ感じで下句は表層的な自動筆記になっているのか?
こっちはシュールのイメージを組み合わせた歌のように思える(塚本邦雄風)。オブジェ志向だということだ。よくわからんが現代芸術っぽい歌なのか?
ライトヴァース(ニューウェイヴ)の加藤治郎が取り上げたのが中野嘉一。
陳腐なファンタジーだな。無意識的な言葉をただ繋げると陳腐な無意識になるのかもしれない。豊かなポエジーという批評だった。
他に鶴岡善久はシュルレアリスムの紹介者である滝口修造と親しかったそうであるが塚本邦夫が天皇制支持なのはけしからんと言う凝り固まった左翼思想だった。シュルレアリスムに信念とか意志的な意識を言うのが無意識を理解しているのかと問いたい。
NHK短歌
「雪月花」を詠む。
月光という言葉を使うことで別次元の世界に連れて行ってくれる。
この歌は上手いよな「ゆひら」という言葉は辞書にない言葉だけど意味が通じる。はしゃいでいる彼女と外のしんしんと積もっていく雪の情景が見事だ。
点字という意味がわからないがその触覚から桜を読み取る。これが百合だと駄目なんだよな。
加藤治郎
口語短歌の雄なのだろうか?「ノルウェーの森」を連想するがそれがイケアのような簡易ベッドの安っぽいイメージだけどその大衆性(マーケティング)は肯定しているような感じなのか?
塚本邦雄の「液化するピアノ」のパロディだろうか?
釜飯屋でのバイトだろうか?日常性を非日常性的詠むのは俵万智と逆。
川野里子
NHK俳句の講師だけどあまり短歌は見たことがなかった。批評的なところは好きなんだが。
次回のお題が「胡桃」だったので取り上げてみた。「ことり」というオノマトペと「よき顔をせり」という下の句はいかつい上の句からの変化か?「鬼くるみ」との対象性だろうか?
子どもが「をんをん」泣く音をフランケシュタインと勘違いするのだが、「フランケシュタイン」が泣く姿に哀愁がある。「をんをん」というオノマトペといい。
カフカ好き。
小島ゆかり
ライトヴァース的な生活詠か?俵万智と重なるところがあるような。
文語の口承性か?俵万智との違いはそこか?
「傘雨忌」は久保田万太郎の忌日。ほとんどの人にはネットで調べないと分からない。また眼鏡のイメージも謎だ?
朔太郎のイメージは好きなんだが「銀漢」がまたよくわからない。「天の川」だった。こういう難しい分からない言葉を使う人は苦手だ。
「鳴かぬ蛍が身を焦がす」
今野寿美「鳴かぬ蛍が身を焦がす 女歌──歌語の意識を手がかりに」。「蛍」という言葉の短歌における変遷を辿ったもので面白かった。
初めに室生犀星の俳句だが、蛍の光とその後に手の匂いを嗅ぐ変態行為がいいという。蛍の匂いが生々しい。
『源氏物語』「蛍」の巻で玉鬘が詠んだ歌はこれをふまえているという。
似たような歌は以後の都々逸でも。
この歌は古今集を踏まえているという。
古典和歌の蛍が広まりすぎて当たり前になったので近現代短歌の中では少ないという(河野裕子)。そして斎藤茂吉の写生句が登場する。
実際には首すぢが赤いのは科学的な描写ではないのだが茂吉の生態描写として古典和歌の世界〈マンネリズム)を脱した。ただ河野裕子が指摘するように現代短歌の中で蛍の歌はけっして少なくはなかった。
唇の直喩は『レトリック感覚』でも川端康成が「蛭のように」と書いたのを意識したのか。
「星水無瀬」は後鳥羽院にあった水無瀬川の水面に輝く蛍だろう。この一連の歌が後鳥羽院の女房として生きた宮内卿のドラマを想定しているという。
秘められた恋の火をほたるに喩える。「また下を向く」は乙女チックか?
「蛍にうまれたかつた」は池田澄子の俳句であったなと思ったらちょっと違っていた。
大口玲子『海量』には「ほたる放生」という一途な恋を描いた13首の連作だという。
大口玲子の「ひっそりと~」と同じ胸に蛍だが道浦の方はより肉感的である。
「耳にこそ宿る」とはイヤリングなのか。「雨夜のほたる」という雫が光る感じか。恋の場面で「耳こそ」に注目した斬新な歌だという。
茂吉の蛍か?
「ルシフェラーゼ」は蛍が発光する酵素だという。
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