シン・短歌レッス138
『王朝百首』
夏の果てには白露も扇も置くだけになるという句だが、白露が儚いものの喩えで扇を合わせているのが雅なのか?扇は夏の雅なものの象徴かもしれない。どちらが先に置かれているだろうという問いかけがウィットに富んだ歌ということだった。夏の扇子の後に白露。そして、霧と雁とキリギリスと秋が王朝の深まっていくという。
古今集の選者の中で名前の読みがわからなかったふたり、壬生忠岑(みぶただみね)と凡河内躬恒(おおこうちのみつね)だが、まだ壬生忠岑は場合は映画『壬生義士伝』があるので名字だけは読めたかもしれない。他に父の壬生忠見も重要歌人(三十六歌仙)とされているので覚えておきたいところ。当時の歌人としては紀貫之のライバル視されるほどの歌人だったとか。
『古今集』の秋の一首目の王朝秀歌。秋の訪れを風の音で感じる雅さという。というか野分のようなけっこうな騒音なのかもしれない。それを和歌で詠むからこそ雅に感じるのであって『源氏物語』でも野分の修繕風景とか男の主が力の見せ所なのかもしれない。宮沢賢治「風の又三郎」とか連想する(雅さはないな)。『古今集』は理性の音楽で『新古今集』は感情の絵画というらしい。これは題詠なのかもしれない。
「秋は夕べ」というのは清少納言『枕草子』であった。それに対して「あさじめり」という。こういう反抗の歌も多い。その歌によって日本人の心が左右されるのは、川本皓嗣『日本詩歌の伝統』「秋の夕暮」で学んだ。
これは逆に「夕露」を賛美している。越前は後鳥羽院に見出された女性歌人だという。
「白露の消えにし人」は亡き人。常世からの使者である雁が魂を運んでいくという斎宮らしい歌。『源氏物語』秋好中宮のモデルとされる。そのサロンが『後撰和歌集』の歌人の歌壇を形成したという。
紫式部のライバル的な女性歌人。この煙は恋が燃えているので亡き人ではなく生者を詠んだ忍恋の歌。
小大君は謎めいた歌人であり、男勝りな風刺歌があったり自問自答の歌であったり(掲載歌)するという。
「鹿の音」が雅な歌語であり、野べの夕暮修飾する。前句は作者の心情を表しそれに同調していく情景歌だ。そこで注意すべきは「風」という言葉が上句から下句へと吹いていくのである。この句は歌合で後鳥羽院と持になっており、その後の歌合で越前に勝ち、定家と持になるなど才能を発揮したが兄が天才・良経に隠れて名門九条家故に忘れた存在の歌人だという。
「涙にしづむ」という言葉に自ら歌合での負けを認めたという歌なのだが、塚本はそこまで悪くないという。歌枕の真野の句であり、情景歌して忍恋を歌ったものだから、実際に涙にくれていたのではないとするのだが。読みようによっていろいろ解釈されるが、さらにセンチメンタルなのは塚本の詩だった。
真野の枕詞の和歌であろうか?尾花(薄)が共通して秋の情景を詠む。「風」は秋の雅語なのかもしれない。秋と特定するわけではないのか?「風」自体が雅語なのは「風流」とかに関係してくるのか?源俊頼は『金葉和歌集』の選者である歌人。
この頃になると秋の情景は坊主歌のような無常観になっていくのだろうか?宜秋門院丹後も尼僧だった。
NHK短歌
枡野浩一は「ドラえもん」短歌の内輪の世界だと思うとどうもやる気がなくなる。テーマからして一人もんには辛いものだった。そんな回だが救ってくれたのが片桐はいりだった。映画のチケットのもぎりのオバサンのCMで有名だった。
「キネカ大森」は今でも二本立て上映やっているところで昔ながらの映画館(外観はおしゃれだが)。近くなら毎日のように行きたい映画館なのだが、ちょっと遠いか?大森は一応都内だし。
そんな片桐はいりが映画のチケットを切るときに火打ち石で送り出すようなと言っていたのが印象に残る。また現実世界に戻ってきて下さいね、という気持ちもあるとか?映画の世界にどっぷり浸って戻れなくなる人もいるからな。これは名言だった。いまではもぎりのチケットも少ないと思うのだが(自分がよく行くところはほとんどなくなっていた)、まあスマホで予約でバーコードとか多いから。なるほどもぎりのチケットが火打ち石なのかと感動した。
東映ヤクザ映画特集ですね。
改悪例
短歌における批評
坪井秀人「滅亡と滅亡のはざまで──大正期短歌論争を読みかえす──」より。
1910年代は明治から大正にかけて近代詩が跋扈した時代であり、それは歌(詩)に新しいスタイルを西欧から持ち込んで新体詩と呼ばれた時期である。口語と言文一致の庶民にも理解できる詩の導入ということで「短歌滅亡論」が出てきた時期でもある。尾上柴舟の「短歌滅亡私論」に誘発されて、石川啄木が短詩としての利便性と時代に合った短歌として、『一握の砂』を刊行するのだ。
さらに純粋に技術論としての正岡子規の「写生論」も、そうしたナルシズムを廃して、例えば短歌が新体詩に影響されて自我を読み込む浪漫主義は啄木も属した「明星」派の与謝野鉄幹などの歌にあらわれてくる。そういしたナルシズムを廃した写生としての技術論は当時隆盛だった宮廷歌人を否定したもので、そうした当時の伝統和歌である桂園派から離れることで新たな短歌を築けるとしたのである。それは歌が和歌から短歌へと変わる契機になったのである。正岡子規の「写生」の方法論は多くの者にうけいれられていたが、当時の庶民から国民へと国家観が問われる中で全体主義化していくことになる。その一つに「実相観入」が説かれることになる。そこにナルシズムからナショナリズムへ、短歌の技法から短歌の精神論へと繋がっていくのは、尼ヶ崎彬「短歌と詠嘆ー短歌という形式ー」に詳しい。
その斎藤茂吉への批評として折口信夫(釈迢空)『歌の円寂する時』が書かれた。