見出し画像

シン・俳句レッスン174



NHK俳句

兼題「冬麗」で句会開催。中西アルノはリズムを最優先にした俳句に挑戦。能町みね子は日常の違和感を詠みこみ高評価に。スマホの闇を詠んだ意外な人とは?

楽しい句会。なんでこんなに楽しそうなのだろう。人選がいいのかな。特選にも納得がいく。能町みね子は上手いな。ユニークな視点なんだよな。

冬うらら電信柱が長過ぎる 能町みね子

特選2並選2。「長すぎる」という言葉がいいと思った。これはフランスの詩人ルナールの「蛇長過ぎる」という詩からだという。

そういう不気味さが入っているのか。電信柱の影を見ているのか冬の日差しによって影がどこまでも伸びていく感じが、下を向いて歩いていた時にふと気づいて天を仰ぐような、「冬うらら」というひらがな書きにしたのもポイントだとういう。「冬麗」では硬い感じだ。それと対照的な句が、漢語表現だという。

冬麗や餓うる如し岩峰鋭し 奥坂まや

アルノちゃんの選評と同じだな。カクカクして漢字の字数が多く意味がよくわからない。餓うる(かつうる)と読む。元は骨のようにギザギザしたイメージで、さらに岩峰と尖って、鋭しと駄目押し。冬麗の季語ではなく、冬の寒さ厳しい季語だという。漢詩だった。高野ツトム先生の芭蕉も漢詩表現の破調の句を作ったというフォロー。こういう雰囲気か。

冬麗や闇をスマホに閉じ込めて 高野ツトム

特選2の並選1。スマホを見続けて歩いているスマホに闇の世界を閉じ込めているという。それは冬麗を見て開かれた世界を想像する。「閉じ込めて」という完結しない言葉使いは、またスマホの世界に戻るということだという。なるほど、今日もいろいろ勉強になる。

冬麗の高きに傾ぎ昼の月 高山れおな

「昼の月」が季重なりで「秋の季語」だという。ただ歳時記によっては「昼の月」は入ってないのもあるという。「月」が秋なのは秋の夜の月が一番綺麗だから「秋」の意味があるという。「昼の月」は秋の月とは違い薄れていく月なのである。そのへんの詩心。「傾ぎ」の表現。「かしぎ」なのだが「かしぐ」では空の不安定感が出ないので「かしぎ」ということだった。簡単な句のようでいて綿密な句だった。高山れおなは寡黙だった(しかし高野ムツオに言わせると非の打ち所がない句だという。そこが面白くないと)。奥山マヤは喋りすぎのおばさんだな。句会によくいるタイプで蘊蓄を語る人。

句会もいろいろなタイプがいると面白いのかもしれない。

<兼題>木暮陶句郎さん「梅」、高野ムツオさん「春泥(しゅんでい)」
~1月6日(月) 午後1時 締め切り~
<兼題>堀田季何さん「囀(さえずり)」、西山睦さん「卒業」
~1月20日(月) 午後1時 締め切り~

描写

金子兜太『短詩型文学論』から。

金子兜太は子規の言う写生を描写に置き換える。写生することではなく描写することなのである。写生という言葉に主観か客観かという問題について、描写するということは一方で描写しないことの意味を含ませる。このことが理解出来ないと、ただ眼の前の現実だけを詠んで目に見えない部分に想像力を働かせることは出来ない。

流れ行く大根の葉の早さかな 虚子

この句は大根の葉だけを詠んだのではなかった。その上流で大根洗いという情景が描けなければただの写生句なのだが、虚子に言わせると、大根の種を撒き、花が咲き、収穫の喜びがある一年の季節の早さを大根の葉によって象徴させているのだ。だから「大根洗」がのちの歳時記の冬の季語として収められたのである。大根の葉はだけでは季語にならない。例えば梅を思い浮かべると、木、花、実において季節感は違うのだ。木を見る場合は、その筋だった節々に梅の木の年輪を視る状態で、葉も芽も出ていない冬を連想させるが花は春、実は初夏のイメージだ。大根もそのように捉えると大根洗が季語として一年の締めくくりとして置かれたのがわかる。つまり大根の葉を観て主観的には「大根洗」を想像しているのだ。「大根洗」までの一連の流れを写生というと目前の大根の葉の流れは描写ということになる。そこに主観は入らない。

甘草の芽のとびとびと一とならび 高野素十

高野素十のこの句に対して秋桜子が作者の個性が見られず「文芸上の真」に於いては虚子のステレオタイプだと批判した。「ホトトギス」では虚子の評価によるものが一番なので虚子の句を真似するものが多かった。

一つの根に離れ浮く葉や春の水 虚子

「甘草」の句は虚子の「浮く葉」(水草)の句を踏まえているという。そこに描写があるのだ。秋桜子に言わせると「文芸上の真」とは文学の心意気みたいなものに欠るのだ。秋桜子が取る句は

菊の香の夜の扉に合掌す 高野素十

である。のちの文学の精神論に繋がっていく話だと思う。

三日月の沈む弥彦の裏は海 高野素十

この句の海は、概念でしかない。海を想像して三日月を描写しているのだ。この写生が客観的事実の句なのである。すべては想定内の出来事なのだ。しかし、次の瞬間に大地震が起きたら弥彦の海も変化しているだろう。それは想定外の自然なのだ。

秋桜子や山口誓子はそうした変化を求めた。それは都市の変化という郷愁の句ではいられない描写を求めた。表現の改革は新興俳句運動を生み出して、虚子の有季定型から離れていく。それは戦争が有季定型でいられない姿として描写していくのが「文芸上の真」と思われたからだろう。しかし虚子のかかげる「ホトトギス」ではそれよりも「郷愁の句」の花鳥諷詠を見出すのだ。

秋桜子や山口誓子は描写から表現論に向かうのは、当時の映画の影響もあるのかもしれない。つまり固定されたカメラアングルではなく、多角的なアングルで描写していくのである。それが俳句の連作ということだった。それは描写という写生を連続写真のように捉える主観的な構成方法(映画の表現法)だったのである。

句会反省会

今回は7点で特選が一句、二句は並選なのだが、特定の人に選ばれるも句会の中では複数選ばれないというマイナスがあった。そういう句なのだと思うが、今回はなるべく写生句にこだわったつもりであった。

通勤の電車見送り日向ぼこ

もっともあまり概念を入れずに描写に徹した句か。一般受けはいいと思うこころが見え見えな気もする。

麦蒔きを見守る妻よ麦秋も

こっちの句は好かれようとするこころが見え見えだった。

銀杏ぎんなん や一言主の罰あたり

自分としてはこの句が一番いいと思ったのだが、あまり受けなかった。

もう少し冒険してもいいかな。新しさはないと思う。今回は句会に合わせた感じかもしれない。無季の句とか字余りの句とか季重なりの句とか来年はチャレンジだな。

いいなと思ったら応援しよう!