シン・現代詩レッスン44
アレン・ギンズバーグ
『百人一詩』は前回書いたように40人目で尽きた。今日から新たな詩を探索していくことになる。
そして、最初にやるのがビートニク詩人のアレン・ギンズバーグだった。ギンズバーグはケルアック『路上』で知ったのかな。その時はあまり関心がなかったが。つづいて大江健三郎『『雨の木』を聴く女たち』の小説に出てきたと思う。大江健三郎が大学のセミナーかなにかのディスカッションで一緒になり、鬱傾向の大江健三郎を短パン姿の陽気なアメリカ人詩人が励ますのだった。それがギンズバーグだった。
ハワイ大学の東西文化研究セミナーだった。『大江健三郎 作家自身を語る』(新潮社)にも出てくるという(読んでいたのに記憶がない)。
そうだ、フォークナーとの対比でフォークナーの悲しみを引用した文章の中で、大江健三郎の悲しみが重ね合わされ(当時アル中だったのか?それでラウリーとも共感していくのだが)、その中で能天気なアメリカ人詩人と出てきたのでいまいち印象が良くないのだった。その能天気の深層にやはり鬱傾向というか狂気性があるのだった。
それをカモフラージュしていたのだ。ウィリアムズ『パターソン』を読んで俺のことだと思ったギンズバーグは手紙を書いて、その中に「白布の異人」という詩も送っていたのだ。
なんか『『雨の木』を聴く女たち』に出てくる元親友の高安カッチャンに似ているような気がする。アレン・ギンズバーグからインスパイアされたということはあるかもしれない。
「白布の異人」はKKKを連想させる。それとも白布を被せられた黒人だろうか?ギンズバーグはこの詩について、
現実と夢の世界をつなぎ合わせる。
いつもいく図書館の駅で座り込んでいる男が気になるのだけど、無視して通り過ぎてしまう。そこに自分自身を重ねてしまうのかもしれない。
ここはもう模倣するしかないような共感しかない。問いかけの詩だから答えればいいのか?
暑いのにアベックは寄り添ったりして、あれはなんだろう。寒くはない冬ならわかるが、そう抱き合って歩かなくても。殺意しかわかない。ひっくり返ったらというのは革命じゃなく、地震ですね。自然主義文学。
ギンズバーグは「白布の異人」をウィリアムズ『パターソン』の登場人物として野心的な詩を構想していた。そのデッサンが「空ろな鏡」と題される詩のようなメモ書き。
意図は明確なのだが、挫折するのか?いや、このあとにビートニク詩人として放浪の旅にでるのではなかったのか?それがケルアック『路上』との出会い。
タイトルが『オン・ザ・ロード』になっていた。ケルアックのビートニクの小説はそうしたヒッピー文化を描いたものだった。ハリウッド映画にもなっていたな。
しかしギンズバーグは挫折からの出発だった。
このあと挫折するのは精神病院に入院させられたからだった。しかしその構想が後の「吠える」につながる「讃歌」を書かせることになる。それは福音伝道師をイメージしたのだという。それで東洋的な賢者の姿というような者になっていく。アメリカ資本主義を呪いながらチベット仏教に憧れた(バロウズの影響)のだが、ギンズバーグの母がそうした誇大妄想狂だったので彼は狂わずにすんだと言う。それでパウンドにも興味を示すのだった。
今日のアイデアだった。