シン・短歌レッス140
『王朝百首』
これも「あきかぜ」と「ゆうぐれ」だから『新古今集』の幽玄の情景なんだと想起する。そこに袖に露の涙という悲しさ。誰かの喪失なのだろうか?
名前から誰か有名歌人の父かと思ったが、母はそういう表記があるが父はあるわけがなかった。深養父は立派な名前であり、『古今集』時代の貫之や凡河内躬恒と親交のあった歌人。清少納言の父の清原元輔の祖父であるから清少納言の曽々祖父ということで名前に関して勘違いが生じたのかもしれない。塚本邦雄が白い萩だというのだが、その理由がわからない。わかった、荻と萩の違いだった。
塚本邦雄は荻と勘違いしたのか?露が白いというのは『後撰集』で貫之と並べられているので、その影響があるのだろうか?
藤原顕輔は六条家当主であり九条家が台頭するまでは全盛を誇っていたとか。
このへんの天皇は混乱してしまうな。後鳥羽院の息子で承久の乱で佐渡に流されたのが、順徳院。崇徳院は鳥羽天皇の息子で保元の乱で讃岐に流された天皇(院だけれども)。ふたりの時代さはふた世代(100年ぐらいあるのか?)。ふたりとも和歌が好きというのは共通しているのか?
順徳院の方が王朝末期的な歌なのかもしれない。
『古今集』No.2という位置づけで、紀貫之とライバル視される。人によっては紀貫之よりも上だというものもあり。紀貫之の春の歌に対して秋の歌だが、所詮No.2だと感じさせる歌なんだと思う。紀貫之が一番で良かったと思うのは、この名前だけでも覚えるのが大変。
藤原定家を凌ぐ早熟の天才という。塚本邦雄がアンチ定家だから言葉半分に受け止めてしまう。この時代歌人は天才が多すぎる。
紀貫之に屏風絵の和歌を作らせたという。恋の歌(贈答歌)が多いプレイボーイ貴族という感じか。風流貴公子ということだった。
『新古今集』の恋歌。逢わざる恋を月に寄せて詠んだ歌だという。同じ並びに藤原良経にも「よその浮雲」の歌がある。
「よその浮雲」が『新古今』ならではの言い回しだという。
『伊勢物語』冒頭の有名歌。「信夫摺り」の狩衣の裾を切って歌をしたためたという。「若紫」はその染の原料となる草で上句の明るさと下句は、百人一首にもある源融の歌を踏まえている。恋歌の傑作の一首。
「王朝」とは真逆な「山賤」な歌僧というイメージでその歌も素朴な語りが魅力な西行である。鳩が友を呼ぶ声という平凡極まりないが「すごき夕暮」のただならぬ情景が、その生き方を詠っているようで後鳥羽院や俊成を魅了したという。西行の歌には西行自身が確かに存在する現代短歌に通じるものがあるという。
NHK短歌
NHK短歌もすぐに復習しないから、細部を忘れてしまう。「省略」は定型三一文字からくる短さゆえのことで、誰もがそれなりに注意を払っていると思うが言い過ぎるということだった。例えば俳句は二章一文ということを最近感じているのだが、それは短歌から来たものとして、写生的な情景を詠んで私の気持ちを述べる七七と捉えているのだが、テクニック的なことで東直子の「代名詞」による前述の物語をカットするという方法が述べられていた。
これはどこが省略なのかわかりにくいが「アフリカに吸いつきてゐし」がアフリカの片隅の海で生きている蛸を「吸いつきし」とイメージしたものであるという。その前段で「西アフリカの海岸の浅瀬に吸いつくようにして育った蛸を私は今食べている。アフリカのことはしらないんだけど。」という散文に対しての韻文、比喩が直喩ではなく換喩なのかな?そのへんの説明がもう少し欲しかった。短歌の場合直喩ではなく換喩か隠喩(象徴)を使うといいのかもしれない。換喩はかなり高度なテクニックだよな。
『短歌と日本人』テーマ「主題」
岡井隆編集『短歌と日本人〈7〉短歌の創造力と象徴性』は短歌の「主題」「文体」「表現」について、それぞれ討論しているのだが、「主題」のテーマで取り上げられるのが、小野十三郎「奴隷の韻律」論で短歌の抒情的なものが短歌に限らず日本のあらゆる文化に浸透しているから注意せよということなのだが、そこに歌の陶酔というものがあるような気がする。
それは和歌が口承文化から始まったこと、祝詞とか宴会芸的な歌合とかは口承の調べが重要なので、それが小野十三郎「奴隷の韻律」で言っていることで、これは日本人の歌の中にある叙情性なので、短歌に限らずに例えば今流行りの流行歌にもあるのである。
歌は別世界に連れ出してくれるが、それに陶酔してしまうと麻薬的に依存的になっていく世界であり、目覚めというのが困難になっていく。その世界から覚醒と目覚めたのがドラッグ使用の陶酔だったり、詩への陶酔もそのようなものがあるのではないのか?
一番わかり易いのはフォークソングの歌詞で、例えばさだまさしなどが日本の抒情を歌っているのはやはり「レモン哀歌」の世界なんだよな。
そしてそれに対抗していたのがマルキシズム的アジテーションの文字の世界観で、それは歌というよりも叫びだったわけだった。
岡井隆があの時代にほんとうに革命を信じていたというのは、今では大げさな言葉に聞こえるかもしれないが、当時の学生たちはマルキシズムを信じていたのだ。それは内面の声ではない書き言葉としての文字であり、漢詩の影響から和歌がもてはやされたのも文字としての声がない声だった。それが贈答歌(恋文としての和歌であり)、本来の祝詞や宴会芸的な共感を得るというのとは違う形として出てきた。それがまた宴会芸的な歌合となったりして、声の文化は滅びはしなかった。その女房たちの声から坊主たちの声は無音というような無常観になっていくのである。
そして戦後、小野十三郎「奴隷の韻律」で言われたのはそうした声としての叙情性で、それは戦後のマルキシズムの論理からは敵視されていく。ただそのマルキシズムに対しての反省がなく、岡井隆などがまた歌会始めに顔をだすものだから、そのへんがいい加減になってしまった。
その時に彗星のように現れたのが俵万智であり、彼女の短歌は口承性の復活だというのだが、その奥に文語的伝統もあるわけで取り扱い注意になっているのだと思う。
現代詩でその口承性に意識的だったのが、萩原朔太郎や中原中也で今も現代詩として影響力を持っている。たぶん口承性の文学というのはもう無理だと思ってしまうのは、これほど文字の文化が蔓延している中で声の文化が失われていくのは必然なんだと思う。小さな共同体のなかで声の文化というものは残るだろうが、それが表舞台に出たとたんに何かのイデオロギーのように感じてしまうのだと思う。実際に共同体はそうしたイデオロギーで生き続けてきたものだからだ。
小野十三郎「奴隷の韻律」で問われているはそういうことなのかもしれない。