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シン・短歌レッスン179

 



短詩型文学論

岡井隆『短詩型文学論』

岡井隆の音韻論の続き。日本語の母音は五種類しかなく子音とセットになっているので、韻を踏まなくとも勝手にそうなるという。「われ」と「別れ」岡井隆は違う言葉で言っていたが思い出せない。斎藤茂吉の短歌をアルファベット表記して、韻を調べたのだ。そこに「調べ」の秘密があると思った。
日本の母音の秘密を解き明かそうとしたのだ。例えば「a」はもっとも多く使われる母音なのだが、その韻と「i」という韻では音の響き違う。そこに日本の詩歌のポイントがあるとして『万葉集』の歌人の母音の割合を調べることでそれをグラフにして、波長を見ると日本の詩歌は、「調べ」に起因するという。

柿本人麻呂は安定したゆったり型(「a」は長母音となり「i」は短母音となるというような)。山部赤人は性急型でその中間が山上憶良だという。

そうしたものを近代短歌にも当てはめると斎藤茂吉は人麻呂型を示すのだが、日本の詩歌を「十二音シラブル」と考えるとそこに複雑性が生じるというのだ。「十二音シラブル」という思考は短歌の定型を五七五七七で見るのではなく、西欧詩の「十二音シラブル」で考えて五七型とか七五型でみる。それは詩の区分けを五連句から三連句のようにする思考法なのか?よく「五七調」なのか「七五調」なのかということである。現在の歌は「七五調」が多くそれが日本の叙情という調べなのか。「五七調」は軍隊の行進曲だとか。そんな風に「十二音シラブル」で考えていくといろいろ見えてくるという。そこはあまり詳しく書かれないのは、そこに秘伝的なものがあるのかもしれない。例えば初句切れで「七五調」にしていくとか、茂吉は「五七調」の連句的用法で結句でまとめ上げるとか。

まつかぜの/ おともこそすれ/ まつかぜは/ とおくかすかに/ なりにけるかも 斎藤茂吉

そういう型は企業秘密ということなのだ。

補説Bは、歌壇についてでこれは面白かった。要は短歌の二極化の話で大衆路線と求道的な短歌があり求道的な短歌は結社主義というような主催者がいてその短歌に右に倣えというような難解短歌になるのだが、大衆短歌は大衆の承認欲求を満たすものだからその時に流行る短歌の右に倣えとなって、盗作騒動も起きるのという。それは大衆短歌がそういうものだという。

結社ではそういう音韻の定型などを研究したりするのだ。それによって文語のもたらす意味とか、短詩というからには日常語よりも歌語として古典の言葉を使うとか。そこは企業秘密的なものがあるのだが、「音韻論」でその片鱗を知ることが出来る(実際にやるとなると難しい)。

NHK短歌

スペシャル 短歌で「光る君へ」を10倍楽しもう! in福井
大河ドラマ『光る君へ』とのコラボ・スペシャル。藤原道長役の柄本佑さんと歌人の俵万智さんがゲスト。ドラマの舞台、越前・福井で公開収録。MCは書評家の渡辺祐真さん。

もうNHKのヨイショ短歌番組になっているな。『光る君へ』の名シーンとか。宇治川でのまひろと道長のシーンは、宇治川が三途の川で此岸と彼岸の境ということだった。そこからまひろは『源氏物語』に一つの結末を付けて、新たに宇治十帖を書き始めるのだ。

もの思ふと
過ぐる月日も
知らぬ間に
年もわが世も
けふや尽きぬも 光源氏

『源氏物語』「幻」

光源氏が最後に詠む歌。その前年に紫の上が亡くなって思い出の手紙を燃やしている。大晦日にけじめとして歌を詠み出家していく。ドラマの道長の出家と重なる。

このよをばわがよとぞおもふもちづきのかけたることもなしとおもへば 藤原道長

ひらがな書きなのは唱和のシーンだからか。二句目中七が字余りなのだが「ぞ」が強調のアクセントになる。「おもふ」のリフレイン(俵万智説によればその前で終わっていたが短歌では足りないので五文字を繰り返した。思うが二回は下手な短歌だという)。唱和すると道長だけではくそこにいる全員が「我が世(夜)とぞ思ふ」のである。奴隷の韻律だよな。


<題・テーマ>大森静佳さん「雪」(テーマ)、枡野浩一さん「ありがとう/うれしいです」(テーマ)
~1月6日(月) 午後1時 締め切り~
<題・テーマ>川野里子さん「青空」、俵万智さん「物語」(テーマ)
~1月20日(月) 午後1時 締め切り~ 

現代歌人13名による大歌会

『文學界 2024年 07 月号』歌会「短歌を詠み、短歌を読む—十三名による大歌会」青松輝・我妻俊樹・伊舎堂仁・井上法子・大森静佳・木下龍也・榊原紘・堂園昌彦・永井祐・服部真里子・花山周子・穂村弘・睦月都 司会=堂園昌彦

もうしてるのに結婚をしなさいと蟬の顔して祖母が来るのよ 大森静佳

トップの6票(青松輝・伊舎堂仁・木下龍也・堂園昌彦・穂村弘・睦月都)
わかりやすい歌だと思う。祖母が蟬(蟬の字が口が二つの漢字であることもポイントだという)の顔というのも面白いし蝉の煩いイメージと合っている。最後の「来るのよ」の口語がポイント。下の句の絶妙さだろうか?「歌会」が上手い人の句だという。アピールポイントがあるということか。「もうしてる」という初句も上手いという。

新しい靴のとなりで歩く のぼりとくだり ずっと右側 永井祐

次点五票(我妻俊樹・井上法子・大森静佳・堂園昌彦・睦月都

ちょっとわかりにくい短歌だが四句目で上句と下句の境目で「ずっと右側」で守られている感じがする。この二人は坂を上っていくのにすれ違う歌とだという。すれ違ってからとなりの詠み手に気がつくのか。新しい靴に最初注目してしまうのだが、靴よりも右側にいる語り手の方が重要なのだ。現代短歌らしい歌だという。韻律も五六七七七の変則。大森静佳の歌に比べて不安定感がある。確認している感じなのか。恋人にまだ行ってない感じなのか?制度をあらかじめ織り込んでぼかしているという。今風の短歌ではないという意見。

夕暮れの色の卵を割り開きこころはなれていく夕暮れに 堂園昌彦

次点五票(我妻俊樹・井上法子・榊原紘・永井祐・穂村弘

割った卵が夕暮れと重なる絵画的作品だというのだが、陳腐なうたのように感じてしまう。リフレインだけど最初は比喩なんだから、それをリフレインで強調するのは下手な短歌(俵万智批評)で足りない下五を付け加えたのかと思ってしまう。夕暮れより食い気という感じなのかな。入れ子構造で秀歌には多いという穂村弘の説明。卵は生卵でかき回していく感じとか。短歌の秀歌性に的を当ててきているという。内輪短歌ということか。どうでもいいような内容だよな。そうか「心離れて」ではなく「心は慣れて」だった。逆に詠んでいた。「慣れていく」と分かる人は凄いな(その言葉で堂園昌彦の歌だと分かっていたと。まったく内輪短歌!)。

おしっこじゃなくうんちで体から排泄されるアイスクリーム 伊舎堂仁

この歌は我妻俊樹の一票だけなんだが好きな歌だった。有りえない世界を諧謔性で詠んでいる破壊性。論理的におかしいから取れないという人が多いのに驚いた。そんなの短歌だからこの世界にない世界を詠んだ方が面白いと思うのだが、ありきたりの世界じゃなきゃだめなんだな。卵の世界のように。この短歌は内輪性はないく破壊的だ。「面白くないよ」の一言で終わるとか。冷たいな。なんでこういう歌を詠んだのか考えないのか。揺さぶりだと思う。安心できる短歌の。制度性というかそういう世界に時限爆弾を仕掛けるような。以前はこういう短歌もあったと思うのだが。穂村弘の「サバンナの象のうんこ」の歌とか。

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