短歌の「カラオケ化」から「AKB化」なのかな、昨今は。
『ねむらない樹vol.4』編集委員:大森静佳、佐藤弓生、染野太朗、千葉聡、寺井龍哉、東直子、編集長:田島安江
先に『ねむらない樹vol.5』を読んだのだが(図書館本だから借りられていた)、vol.5はリニュアル号となっていて、5号でリニュアルとは短歌雑誌も大変だなと思ったのだが。
原因として売上減少が考えられるが、この雑誌のメインは笹井宏之賞と思うのだ。随分気前がいい賞で、大賞には歌集出版と個人賞もそれぞれあって雑誌に掲載される。
それでも売上低迷なのかとも思う。短歌ブームとか、それは一部のことなのか、と思った次第。
特集1 第2回笹井宏之賞発表!
第2回笹井宏之賞発表!だが、大賞作もあまりピンと来なかった。選評読んでも、よくわからないことの方が多い。ただ長嶋有は歌人ではないので、彼の読みは参考になった。そういうことで鈴木ちはね「スイミング・スクール」は妥当なんだと思ったが、歌人の評価は榊原紘「悪友」の方が高いような気がした。「スイミング・スクール」は若い人で未来性を買って、「悪友」の方が上手かったのかと思うが、こっちは素人にはよくわからなかった。選者の歌風もわからないから判断もつかないのだけど。もしかして、この選考で内部対立があったのか?売りに行くには「スインミング・スクール」だろうみたいな。わかりやすいと言えば一番わかりやすかったかも。
特集2 短歌とジェンダー
この特集は面白かった。昨今のジェンダーブームである。短歌もいろいろ参考になる。
『カミーユ』という歌集がジェンダーを扱っているらしく、このタイトルはロダンの弟子であった「カミーユ・クローデル」だろう。イザベル・アジャーニの映画で有名だから女性だと芸術家として社会的にチャンスがない。むしろ愛人としてその立場を貶められていく。これなんか高村光太郎と智恵子の関係を思うのだが、そういう歌もあるのか、ちょっと興味を引く歌集ではあるな。掲載歌は、チンギス・ハーンの皆殺しで女は性奴隷として対処される。「紫陽花」は「桜」とは対称的にうたにはなりにくい花だった。
春日井建の歌は、80年代に出た最初の頃の「ジェンダー」短歌だという。春日井建はゲイであったようでセクシャル・マイノリティーとしての歌のようでもある。
斉藤斎藤は男の存在が先立って、女の存在は雌として認識されるというわかりやすい歌。女性歌人とか女流歌人とか。男性歌人とは言わない。「なかに出すまで」が露骨な表現だった。
学校教育は軍隊から始まったという前提があり、女子はそのなかで貞操教育がなされたということが、女子だけに性教育は施されるという日本の後進化を示しているのだろう。
俵万智の歌は時代遅れの歌としてのジェンダー短歌。こういう歌が今もあるんだよな。
水原紫苑の短歌はアンチ俵万智の系譜で、林あまりからの系譜だと思うのだが、ここでは生みだすのが子供じゃなく作品となっているところのジェンダー観。芸術観と言ってもいいのかも。
今橋愛の歌は、それまで女性歌人は女性としてのジェンダーで読まれてしまうのだが、40過ぎるとそんな問題もなくなるというのを、解放されたと詠むのだろうな。
短歌の美意識が戦争の死と深く結びついているおとこ歌の系譜がある。それの批判というよりこの歌も美意識を歌ったものだと。この短歌にはホモセクシャル的なものを含んでいる。そして腐女子と呼ばれる女性たちはこういう世界に喰いつのだった。
坂井修一の歌は女性の「ジェンダー」を「産む機械」として捉えた社会通念の歌だと思うが、男が無理して作るとこんなもんかもしれない。
今橋愛のニ首目だが、これは男女関係ないとは思うが子育てしている者でないと見えない視点だった。それだけ都市というものが男性中心に作られていると気付かされる歌で、今回はこの人が一番鋭いかなと。観念じゃなく身体的なこと(苦痛)の発露だよね。
寺井龍哉「されど われらが批評――」、「短歌と二人の作家――佐藤泰志と村上春樹」
短歌が詠まれているが読まれていないという。これは「批評の不在」としてしばしば目にする意見だ。例えば佐々木幸綱『歌壇のカラオケ状態は終わったか』(角川『短歌 1999年1月号』)から状況は変化しているという。価値観の多様性により「不在」と感じてしまうのは、批評の言葉が長すぎてネット媒体には合わないということらしい。作品の良さを伝える言葉は単純にいいねやスキで示される現状は、書評媒体の批評とは相容れない世界なのかもしれない。そこから自分好きな短歌をどう他者に伝えていくが問われているという。
短歌の読みの世界は特殊だと感じてしまうのだが、批評はそういう手がかりは与えてくれるとは思う。ただ好き好きの志向は人それぞれなのだが、例えば「短歌と二人の作家――佐藤泰志と村上春樹」と二人の作家を比べた場合、私は断然、佐藤泰志の方が好きなのだが、この論評の二人の作家による短歌の視点が面白かった。ジャズ喫茶のことも絡めて興味深い話で、村上春樹の短歌は口語現代短歌のようでライトヴァースなのだが、佐藤泰志の短歌は文語で玄人受けがするような短歌なのだ。その佐藤泰志を発掘して本に出したいという、ちょっと期待してしまう。
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