シン・俳句レッスン70
今日は菊が題詠。日記の方でちょっとやってしまったのでイントロはカットする。
俳句の達人
村上護編『俳句の達人が語る「私の極意」から。石原八束。
飯田蛇笏に師事して、散文を三好達治に師事したとある。三好達治と聞いただけで保守的な反動作家かと思ってしまう。前半は飯田蛇笏との関係であり、後半は三好達治との関係というような語り。精神論なんだよな。ただ虚子の写生というのを否定していて、正岡子規の「糸瓜」の句などは、内面描写だという。内面を糸瓜に託して詠んだ「内観造形」だという。
金子兜太の「造形俳句」と同じことを言っているのか。金子兜太よりは茂吉の「実相観入」の方に近いのかもしれない。またアウトサイダーだというのだが飯田蛇笏が自分の家から離れられなかったのもアウトサイダーとして理解するのである。アウトサイダーが父親を継承するかな、とも思うのだが。
飯田蛇笏の伝記本のようなものも書いていた。石原八束『飯田蛇笏』。これは読んでみたいかも。
日本の文化は過去からの継承だという。俳句でも芭蕉の俳句を理解できる。中国やエジプトでは過去は過去として切断されているというが。だから日本では正統から外れたものの方が理解されやすいというのだが。
俳句いまむかし
坪内稔典『俳句いまむかし みたび』から。
春
これは川上弘美の傑作だった。エロティックだけど「憂いて」いるのは年齢による衰えた乳房なのだ。お湯に浮くというのがなんとも。
どうでもいいような。人間死ぬときは一人だから。なるようにしかならない。人間関係で憂いることもないし。孤独は憂いているよな。孤りは開き直るしかないのだった。
ロシアでは旧暦でクリスマスをやるというのでそれもありかなと。旧暦で生きるのもいいかなと。
女子が乳房を詠んでいるなら、男子は一物を読まねばならん。
夢精でもしたのかな?
「春の夢」は儚いものだったらしい。春ばかりじゃないけど、冬の夢はいつまでも続く未来の夢か?
ネガティブ短歌しか出てこない。
若いんだろうな。朝寝したらいつまで寝ているかわからん年になってしまった。
こっちのほうがよくわかるな。ところで「朝寝」は春の季語なのか?「冬」の寒さから抜け出せないこの頃だけど、それは何というのだろう?
「剪定」が春の季語だった。
これも「接木」がはるの季語。冬眠している芽が起きる時に接木するのだという。最近は暖冬で樹木も冬眠できないらしい。樹木も冬眠するのか?山茶花は冬眠しないんだろうな。
松本清張『昭和史発掘』を詠んでいて公安の密偵について書いてあったんで。それ以上の意味はない。また山茶花を詠んでいた。「菊」だったのに。
「卒業子」は卒業する生徒。普段は「卒業生」だが「卒業子」の方が一音少ないから使いやすいと。俳句のために言い方を変えるのか?
なんだろう。堤が思い出の場所なのかな。この本も返却期限が来ているから返さねばならない。こういう俳句のアンソロジーは面白い。