シン・俳句レッスン83
今日は七福神で俳句。町田七福神めぐりで吟行も兼ねて七福神で俳句を詠んでみたらどうかと考えていたのだ。まずその前に作った俳句があった。
今朝日記のほうで作った句を応用して。びしゃっと門を閉じられた感じか?漱石『門』のほうがいいか?
なんとなく有季定型。毘沙門天に拒まれた私。
七福神詣で季語だった。福詣で季語的なのか?能村登四郎は昨日やったな。
俳句の達人(原裕)
本に掲載されている写真は怖い感じなのだが。
よくわからない人だった。それは原石鼎(はらせきてい)という俳人をよく知らず、この俳人の弟子になって養子になった人だった。
それが人と出会うという最初に来る言葉なのだろう。あまり人に出会わないからな。ものと言葉には出会うのだが、最初が駄目だから理解は遠いのかもしれない。どちらかというと写生より想像力の人なんだが、観念的すぎるのかな。芭蕉より蕪村タイプ。原石鼎が絵も描く人だったから、そんな感じなのかもしれない。
俳句もよくわからん。ただ詠嘆の「かな」が好きな人のようだから自分に酔ってしまうのかもしれない。
『俳人風狂列伝』(伊庭心猿)
『俳人風狂列伝』石川桂郎より。永井荷風『来訪者』のモデルとなった詐欺師。荷風の原稿を借りてその筆跡を真似て偽原稿として売りさばいたとか。荷風には『四畳半襖下張り』などの春本もあったので、その未発表原稿だとかいって貸本業で儲けていたらしい。
荷風だけでなく樋口一葉の未発表短歌とかも出していたようで家には樋口一葉の写真を母親だと言って飾ってあり、心猿の夫人はそれを死んだあとでも信じていたそうである。石川桂郎のエッセイはどことなく心猿をユーモアある感じで描いていて、読み応えのあるエッセイ。
俳句いまむかし
坪内稔典『俳句いまむかし ふたたび』から。
春
破調。破調だから白魚がおどっているような感じなのか。「不純異性交友(遊)」とは稔典さん時代の言葉だという。いまじゃ当たり前か。
これはけっこう好きかもしれないな。清らかな者ほど生臭いのは言えているかもしれない。
罰が当たるな。
刺客は自分を戒める喩えだとか。刺客というと「子連れ狼」の歌を思い出す。
もう寒いのも苦手になってきている。暑いのも嫌だけど。
もうちょっと敬意がなければ駄目だな。
「寒彼岸」は造語だった。
「春三つ星」はオリオン座だという。木の下でオリオンが登っていくのを水に喩えたのか?わかりにくい句だった。
恵比寿様がオリオンビールかと不満を言っている。
恵比寿もオリオンも仲良く酔っ払い。
春の星がすべて妻の遺品というのだが。「ならざる」は否定ではないのか?よくわからん句だ。「妻の遺品」で感情が持っていかれるが。春星さえも妻の遺品ということなのか。
ことは琴との掛詞。妻を思い出しながら弁財天に祈るのか?
「竜天に昇る」が春の季語だという。
鼻息を「龍天に昇る」息吹に例えているのだった。
神社で手を洗う場所の竜の口から水が出てくるのは意味があるのだろうか?
中国の『説文解字』に「春分ニシテ天ニ登リ、秋分ニシテ淵ニ潜ム」から松宇(しょうう)が最初に作った俳句から広まっていったのだとか。使いたくなる季語だよな。
クレソンがおしゃれ野菜か?菜っ葉だと田舎娘だから家出とは見なされないだろう。都会の娘が本当は菜っ葉なのにクレソンだと幻視して迷子になるのだった(私の解釈)。稔典さんは陽春のちょっとした冒険だという。甘いな。
人さらいの大黒様。
こういう句は徐々に読まれなくなっていくのだろうな。
むりやりすぎる俳句か?寿老人は俳句になりにくいよな。