見出し画像

「人はパンを求めて生きている」のか?

『トゥルーノース』(日本・インドネシア/2020)監督清水ハン栄治 出演

解説/あらすじ
1960年代の帰還事業で日本から北朝鮮に移民したパク一家は、平壌で幸せに暮らしていたが、突然父が政治犯の疑いで逮捕。家族全員が突如悪名高き政治犯強制収容所に送還されてしまう。過酷な生存競争の中、主人公ヨハンは次第に純粋で優しい心を失い、他人を欺く一方、母と妹は人間性を失わずに生きようとする。そんなある日、愛する家族を失うことがきっかけとなり、ヨハンは絶望の淵で「生きる」意味を考え始める。やがてヨハンの戦いは他の者を巻き込み、収容所内で小さな革命の狼煙が上がる。

Netflix鑑賞会。北朝鮮の収容所の悲惨な状況を描いたアニメ。隷属的収容所で反乱もなくアウシュヴィッツと同じ構造なんだが、収容者によって収容者を管理・統制するシステムの中で抜け出せない強制労働(炭鉱や中国向けの安い製品か)に従事する。ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』「大審問官」の問題と重なる。

大審問官は、イエスの言葉「人はパンのみに生きるにあらず」と言ったがスペインの異端審問で大審問官が「人はパンを求めて生きている」と言い直し生きていくためには隷属的になり、統治者を神とも崇めるだろうというもの。それは、イエスの言葉が選ばれた少数者に対しての救いの道だったのに対しての言葉だったが、たいていの大衆は「パンを求めて生きている」のだ。理念より生活が満たされていれば従属的になるというようなこと。

奇跡を必要としない信念のあるものと信念なき大衆を言っている。例えば政治家がすぐにでも経済が回復できる奇跡ような言葉、そのためには今の政治なければ駄目なのだと主張する。大抵の人は、そんな奇跡の言葉など信じていないと思うのだが権力者に楯突くと異端者(非国民)扱い。

なんか日本の政治状況とも重なって、異端審問の時代ほど酷くはないが、すぐ近くの北朝鮮という場所で起きていることなのだ。大審問官の論理は、北朝鮮の指導者とほとんど同じだと思うのだがそれにどう対処できるのだろうか?

収容所に入る前の政治的無関心というのがある(関心を持つと収容所行きというジレンマ)。北朝鮮のようになったら出口は民主革命しかないんだろうけど、中国を見てもわかるようにますます権力側が巧妙になっている。人民による人民の支配で、自由を求める者は異端者となるのだ。今の日本の政治状況はその危険さえあると思うのだ。

この映画を見てどうのような解決があるのか考えると答えが出ない。反抗すればいいのではないのかと思うが、家族や多勢に無勢にその構造をひっくり返すのは難しい。何よりも大衆はパンを求めているからだ。生活するだけで精一杯で政治を変えようと思わないのか?ほんとその現実はすぐそこまで来ている。

この映画が在日朝鮮人の監督が作りながら、吹き替えは英語だった。日本のマーケットを想定して作ったのではないのだ。それは今の日本を見ていると正しいように思えるけど悲しい話でもある。アニメなのに日本語ヴァージョンが作れないのか?作らないのか、そのへんも気になる。映画館公開もひっそりと公開された感じを受けてしまう(それほどニュースにもならない)。

Netflixで見られるので見られる人はぜひ見てほしいのだが、ただ気になるのは救いはあの世にしかないということだった。それこそ大審問官の論理なのだが、パンを得る代わりに地獄のような生活があるだけで天国はあの世にあるのだ。自由を求めるものは異端なのだ。どうする?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?