シン・短歌レッス110
王朝百首
この辺の良さがよくわからん。詰め込みすぎのような気もするんだが。春と花散るが重なっていたり。俳句じゃないからいいのか?上句は華麗で下句は陰があるからいいのかな。それほど天才の歌とも思えないのだが。「百人一首」にも藤原義孝が載っているがそっちは駄作だという。
直接的過ぎるのか。早逝の歌人だそうだが。
NHK短歌
吉川宏志。会話を入れる。「ごめん」
会話がないな。心の会話ということで。
齋藤史
雨宮雅子『齋藤史論』から。「シシリイの薔薇と濁流」。シシリイの薔薇は近代のモダニズム運動の中でイメージされた史の想像を掻き立てたヨーロッパのモダニズムのイメージだろう。しかし、時は軍国化に進む中での2.26事件という日本の現実の濁流に飲み込まれていく。当時は前川佐美雄の主催するモダニズム雑誌「日本歌人」で注目されたモダニズムの歌人であったのだ。それは、
という青春謳歌の短歌から、
喪失した時間のなかで何かが崩れていく崩壊なのであった。そのように現れた遠景はかつてのモダニズムではありえない濁流の歴史だったのだ。
師とその溺愛する弟子
小林幹也『短歌定形との戦い』より。「師とその溺愛する弟子──塚本邦雄による溺愛」
溺愛のモデルとしてイエスとその弟子ヨハネの愛情は、ヨハネが死にゆくイエスに包まれるようにマリアに抱かれるピエタ像とは逆に、そこに同性愛的な関係性があるという。
塚本邦雄のイメージはさらにルートヴィヒ二世の溺愛した馬丁のリヒャルト・ホルヒニとの同性愛的関係に踏み込む。
ただ塚本邦雄の短歌には注意を要するのは、「馬丁一匹」と人間ではなく家畜として描いているのである。
国民文学への期待
篠弘『現代短歌史Ⅱ 前衛短歌の時代』から「国民文学の期待」。伊藤整の「俳句第二芸術論」とは別に韻律の可能性として療養者の歌と私小説について語って素直に感動を引き起こすとする。しかし、そればかりでは文学としては閉じられた世界のものになってしまうので、プロ歌人たちは外の世界に踏み出して欲しいというのが彼の本意であった。
それは歌人たちは短歌だけの世界、俳人は俳句だけの世界を見ていて越境するものがいない。今ではそういうこともないのだろうが、それでも短歌を作る人は短歌ばかりで俳句を作る人は俳句ばかり、そして自由詩の世界もそうした仲間うちで固まってしまう。文学として、それはどうなのか?という議論だったのだ。もっと「自由な詩人」であって欲しいという期待の現れだったのだ。
うたの日
お題「尾」。今日の本歌は、
尾は尾っぽしか思いつかない。「ゴジラの尾」とか。鶏の頭より竜の尾になれとかいいうことわざ。かと思ったら「鶏頭牛後」らしかった。ただ尾だったら竜だろうというのは、竜頭蛇尾という言葉もあり、それらがごちゃになって記憶されていたのだろうということだった。要は言葉は生ものだから辞書通りにはならないのだと思う。鶏頭龍尾と覚えていても意味的にはあっているわけだから、どっちでもいいのだと思う。それより竜頭蛇尾は逆だな。
これは間に合わず。その後にすぐ出かけたので22日はなし。今日はなんとか完成させよう。「うたの日」も最近やる気がないのかもしれない。そりゃ、毎回評価されないと意欲も落ちてくるよな。そんな短歌じゃだめなことはわかっているのだが。今日はなんとかやりきろう。「爆」「草」「鮫」「めりはり」「凛」「々」「鳴」「ながら」のどれかに。お題があると不自由なんだよな。今の気持ちは「トリアージ」とか。本歌の「かくてやみなむ」から作っていくか。
こんな感じがいいと思うのだが、まったくお題にかすっていなかった。「感染爆発」とでもするか?
意味はつながっているか?まあ、読書感想文的な短歌ということで。どんまい記録更新だった。
映画短歌
『ゴールデンカムイ』
本歌
本歌取り短歌。