見出し画像

シン・短歌レッスン182

 



NHK短歌

枡野浩一さんが選者の「あなたへの手紙 かなたへの手紙」。今回は「おはよう/おやすみ」がテーマ。ゲストは精神科医で翻訳家の阿部大樹さん。司会は尾崎世界観さん。

眠れない
私もいつか
永遠に
眠るからいい
おやすみなさい 枡野浩一

「おはよう」は声に出すけど「おやすみ」は静かに言うというその差をどう表現するか?なんか今日の枡野浩一の短歌いいじゃないか?

一日の中で何かを諦めた時に眠るという。今日は「シン・短歌レッスン」を上げるまで眠れない。

日が暮れて
おはようという
キャバ嬢は
業界用語の
水に浸って やどかり

改悪コーナ

「おはよう」と
あなたが言って
くれたから
円周率が
割り切れそうだ 一席

「おはよう」と
あなたが言って
くれたから
せかいすべてが
きらきらしてる 改悪

改悪例は言葉ではなく絵になるが上の歌は言葉でしか表現できない。フレーズがだれでも真似したくなるような言葉にする。

<題・テーマ>大森静佳さん「書く(テーマ)、枡野浩一さん「さようなら/おげんきで」(テーマ)
~2月3日(月) 午後1時 締め切り~
<テーマ>横山未来子さん「花」、荻原裕幸さん「四月」
~2月17日(月) 午後1時 締め切り~ 

四月から選者が変わるんだ。

荻原裕幸は年齢が近いから感性が合うかもしれないな。川野里子さんが変わるのか。

『昭和遠近短歌でたどる戦後の昭和』島田修三

スウィングする心に脅え俘虜父のIn the Moodを聴きしやかの夏 島田修三

『晴朗悲歌集』(1991年)

太平洋戦争で俘虜になった父はアメリカのジャズ(グレン・ミラーのヒット曲)を聴いていたのだろうと息子はジャズを当たり前の音楽として聴いている。世代間の断絶。「In the Mood」という英語の使用も今までにはない(敵性言語だったのだから)ものだ。

幼きら並びて靴を磨きをり孤りの生きのすべなく つよき 大野誠夫

『薔薇祭』(1951年)

東京の戦争孤児(浮浪児)たちの姿は流行歌にもなった。

くびらるる祖父がやさしく抱きくれしわが遥かなる巣鴨プリズン 佐伯裕子

『春の旋律』(1985年)

歌人佐伯裕子の祖父はA級戦犯として処刑された陸軍大将だった。このような歌が戦後ではなく、八十年代に詠まれたのが時代の変化があったのだろう(中曽根政権か)。

あなたは勝つものとおもつてゐましたかと老いたる妻のさびしげいふ 土岐善麿

『夏草』(1946年)

戦後はこのような反省を促す歌が多かったのだろう。この時土岐は六十歳。息子三人を出兵させていた。

校門の前にあやしき人ありぬたとへばひよこを売りゐしをぢさん 菅野節子

『鉛筆』(2021年)

怪しき露天商はけっこういたな。ひよこも覚えがある(雄しかいなかったとか)。あと今でも駅前で売っていたりするのでまだそういう人はいるんだろうな。だんだん商売も厳しくなっていると思うが。

ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す 宮 柊二しゅうじ

『山西省』(1949年)

中国での一兵卒の戦い。大岡昇平はアメリカ人の青年と眼が合って殺せなかったと書いていた(『俘虜記』)。

ゆたかなるララの給食煮立てつつ日本の母の思ひはなぎず 山田あき

『紺』(1951年)

ララはアジア救済連盟の略でアメリカのララ物資による配給。脱脂粉乳とか家畜の餌だったと後に判明した。脱脂粉乳を知っているかで世代間断絶があったな。

昭和の子なれどもわれは練乳を苺にかけた記憶のあらず 花山多佳子

『鳥影』(2019年)

食べ物の世代間ギャップって結構あるよな。練乳の三角スプーン(苺用のスプーン)はあった。

蛔虫 かいちゅうでも居るのでせう」と言ひながらわが脚を毛布に包む妻 清水房雄

『一去集』(1962年)

回虫は博物館で観るぐらいだった。回虫を飼っている博士とかいたよな。

そうだ花粉症とかにいいとか。

結核のなくならぬ国 長靴に素足をいれて梅雨の夜行けば 岡井隆

『αの星』(1985年)

いまでも結核の死亡はあるとか。ただ治癒は不治の病ではなくなったとか。癌もそうらしいのでどんどん寿命が伸びていくのはいいことなのか?

『短歌で読む 昭和感情史 』菅野匡夫


食ふ草よ草よ草よと誰もがみな花見にと来て草を摘むなり 山田尚子

この歌は昭和十九(1944)年の戦時中に作られた小学生六年の女子の歌。彼女はその後国会の速記記者になるのだが過労のために二十歳で亡くなったという。

短歌の歴史

わかくして
数人の父となりし友
子なきがごとく酔へばうたひき 石川啄木

石川啄木は難解な言葉を使わずに感情表現した歌人であり、彼を模倣する者も多かった。

その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな 与謝野晶子

当時女性は感情をあらわにするものではないと嗜められたのだが(森鴎外の批判とか)、与謝野晶子(鳳晶子)は女性でも感情を堂々と歌ってみせた。

1941年十二月八日

日米が正に戦ふニュース頬こほばりて我は聴きゐつ 田中みゆき(27)

『アララギ』

開戦をラジオ聴いた一般人は身震いするような緊張の中で硬直していた。

初戦の勝利報道に歓喜する人々

学校より帰りて居りしわが娘と正午 勝鬨かちどき に和しをはりけり 斎藤茂吉(59)

『大東亜戦争歌集 愛国篇』

もの洗ふ水仕のをみな妻どもも涙して聞けり刻々のラジオ 吉川英治(49)

『吉川英治全集・補3』

男も女も興奮した様子がわかる。ラジオが大本営そのままに意図的にニュースを流した(今のロシアとかイスラエルとか)。

天にして雲うちひらく朝日かげ真澄み晴れたるこの朗ら見よ 北原白秋(56)

『大東亜戦争歌集 愛国篇』

灯火管制の灯の下で

おこる世代の 資料しろ と十二月八日の夕刊をたたみて保存す 清水芹畝(43)

『大東亜戦争歌集 愛国篇』

新聞報道も大本営の発表通りの活字だけで写真とかは無かった。この日の新聞から天気予報がなくなる。敵国に情報を伝えるからと(そのぐらいの情報は独自に調べるだろう)。

暗幕をくぐり出て来し舗道にて師走八日の星座が低し 上村久子

『多磨』

女性の方が冷静なのか?

灯火管制の電車のなかに皇軍の迅き行を讃へる声す 小島彌太郎(19)

『アララギ』

真珠湾攻撃

航空母艦「蒼龍」に乗船した佐藤完一(機関)特務大尉の連歌が臨場感ある戦争を伝えている。

今ぞ知る我が作戦の内容に思はず万歳と叫ぶ兵あり 佐藤完一

作戦は突然知らされ真珠湾攻撃をしたのだった。「リメンバー・パール・ハーバー」だよな。『トラ・トラ・トラ!』か。

突撃の電波は耳を劈き三千 浬外 りがい 布哇 はわいの空より 佐藤完一

ハワイは漢字で布哇と書くのか。わからんな。地名とか全部漢字だったのだろうか?

攻撃機還りたるらし通風筒に耳あてて聞く遠き爆音 佐藤完一

アメリカの戦死者2300人を超え、日本軍も未帰還機二十九機、戦死者五十五人。

艦首の方を日本と定めて姿勢を正し眼閉づれば涙垂り来る 佐藤完一

時来なば戦死と決めし我が部署は水準線下二・八 メートル 佐藤完

上の歌は別口で「アララギ」に投稿した短歌であり辞世の歌だったようだ。佐藤完一は半年後のミッドウェイ海戦で亡くなった。

マレー半島1,100㌔の戦い

ぬかるみの汀に兵は行きなやみ撃たば撃てよと叫ぶもをりぬ 佐々木昇

『大東亜戦争歌集 将兵篇』

鉄帽を かぶりしままにうつむきて日本兵の屍流るる 田金勇(29)

敗敵の捨去りし自動砲多くして捕虜二千五百と夕べ聞きたり 多田次郎
(28)

シンガポール遂に陥ちたり油煙のなかジョホールバル仮橋いまわが渡る 荒木芽生(22)

『戦場に架ける橋』だと思ったら違った(こっちはビルマだった)。

胸に下げしパインアプル缶に 戦友とも 遺骨ほね 納むと聞き涙とどまらず 宇沢甚五(29)


いいなと思ったら応援しよう!