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シン・俳句レッスン23
エノコログサは秋の季語。漢字で書くと狗尾草。ひらがなでゑのころぐさ、これがいいかな。今日はゑのころぐさで十句。
一面のゑのころぐさは風媒花
「風媒花」は武田泰淳『風媒花』という小説から。意味は植物には「虫媒花」と「風媒花」があり、イネ科は風によって花粉を運ぶ「風媒花」だという。
大岡頌司
三行表記で地霊・郷愁を詠んだという。
かがまりて
竈火の母よ
狐来る
「かがまりて竈火(かまどび)の母よ狐来る」よりも冒頭の音韻がわかるようになっている。
寺山修司と同世代で青春俳句を作っていたのだが上京して高柳重信「俳句評論」に入ってから行分け俳句を作るようになったという。詠む内容は郷愁とか地霊(柳田国男路線)とか古臭いのだが、行分け短歌だとモダンに見える。
祖母の茶が
さめてゐる
麦藁帽子の留守
花冷の
摺鉢の辺の
母とゐて
昼枷夜枷
榾火がつきる
針やすみ
ふるさとの
踵の砂を盗る
ながれ
大岡頌司は一歳の時に母を亡くしてから祖母の手によって育てられたられたという。
「榾火(ほたび)」は焚き火のことで冬の季語。囲炉裏のことだという。
「ふるさと」の句は川遊びで踵の砂が水流で削られていく遊びだという。
高柳の多行形式は4行だが大岡頌司は三行限定。そこに安定感があるのかもしれない。
杭のごとく
墓
たちならび
打ちこまれ 高柳重信
ゑのころぐさ
猫とぼく
戯れ遊ぶ
安定した形
ゑのころぐさ
猫
と
僕
戯れ遊ぶ
子猫と遊ぶ
ゑのころぐさ
の
猫じゃらし
三橋敏雄
昭和十年代に天才少年として新興俳句で俳壇に登場する。その後社会性と俳諧を融合した古典的風姿になっていく。三橋敏雄は主宰誌を持たず同人誌を通じて活動。
山に金太郎野に金次郎予は昼寝
少年ありピカソの青の中に病む
射ち来たる弾道見えずとも低し
そらを撃ち野砲砲身あとづさる
昼花火見えては白しああ銃後
根本まで赤き夕日の葉鶏頭
いつせいに柱の燃ゆる都かな
鬼赤く戦争はまだつづくなり
父はまた雪より早く出立ちぬ
赤土のなゐ国またゆらぐなり
当日集合全国戦没者之生霊
「山に金太郎」は絶筆俳句。「武」と「文」を対句して、その両方でないと洒落た句。
「少年あり」は十代の頃の作品。
「射ち来たる」と「そらを撃ち」も十代なのだが、こちらは戦火想望俳句で17歳で新鋭俳人としてデビュー。
「昼花火」「根本まで」「いつせいに」は戦時。
「鬼赤く」戦後のベトナム戦争だという。
「父はまた」は日常の情景。
三橋敏雄は戦中派なので、戦後もそういう俳句が多い。
僅々十七字たらずの措辞に依つて決定される連想範囲に社会性を求めるならば、ある特定の時代的背景に頼りそれを要素とすることによつて、満たされぬ意欲を諦念の表情に保つみじめさであつた。
英霊の戦場ヶ原狗尾草
狗尾草魂(たま)もなびくや風媒花
阿部完市
精神科医のシュールレアリストという感じの俳人か。LSD実験で無意識の俳句を作ったいう。メルヘンチックな残虐性というか?俳句を見たほうがわかりやすいかも。
少年来る無心に充分に刺すために
ローソクもってみんなはなれてゆきむほん
しずかなうしろの紙の木紙の木の林
天にこしかけちぢこまり生きている私
萌えるから今ゆるされておかないと
犀が月刺している明るさよ
木にのぼりあざやかあざやかアフリカなど
すきとおるそこは太鼓をたたいてとおる
「天にこしかけ」「萌えるから」「犀が月突き」が『L・S・D・の世界』それほど衝撃的ではない。AI俳句みたいなものか。ラスト2句は言葉遊びの世界だ。まあ、全体的言葉遊びの世界なのか?「ローソク」は意味不明だけど面白い。最初「ローソン」かと思ってなんて斬新なと思ってしまった。
ローソンの万引き見てやゑのころぐさ
ゑが驚きの感じか?
河原枇杷男
永田耕衣の弟子のようで、と言っても永田耕衣が思い出せない。
永田耕衣は東洋思想的な諧謔な俳句を詠んだのだが、河原枇杷男は哲学的な我の中に存在論的闇を見出す感じか。解脱できない観念論者みたいな。
身の中のまつ暗がりの蛍狩り
身を出でて杉菜に跼む暗きもの
或る闇は蟲の形をして哭けり
天の川われを水より呼びださむ
我をおもへる葛の一葉も闇ならむ
「跼む」。また難解な漢字出してきて、(せくぐま)む、(こご)む。こういう(精神論的)人の俳句は難解漢字を使ってなんぼみたいな。『烏宙論』は「宇宙論」の文字りなのだがパロディではなく「烏(いづ)くん宙ならん」という漢語から来ているという。
詩の源が、可視と不可視の二つの世界の対立の自覚に発するとすれば、形而上学思惟を欠く詩業などありえないであろう。 河原枇杷男
形而上学思惟が詩だと思っている時点で駄目だな。愛の方が大切なんだろうけど愛の欠如なんだと思う。童貞臭い。
ゑのころぐさの形而上学や戯れに
今日も長くなってしまった。観念論の俳句はやりにくい。