シン・俳句レッスン67
冬木の赤い実。なんだろう?ソヨゴとか出たが。
最近は一つの題材で多数作ることにしている。いきなりは難しいので過去作を読みながら気になるところに注意して真似ていけばいいのかと。投稿するわけでもないんで、真似っ子も許されるだろう。芭蕉だって西行に真似っ子だったのだし、西行もそれ以前の歌人の真似っ子から歌を詠んでいた。そもそも芸術は模倣から始まるのだ。最初からオリジナルティなんて無理だった。その前に。
俳句の達人
村上護編『俳句の達人が語る「私の極意」から。今日は有馬朗人(ありまあきと)の言葉。いつも名前からして読めないから困ってしまう。
「天為」は自身が出した俳句同人誌の名前だった。荘子の無為自然から来ているようだ。有馬朗人は東大の学長だった人だが、景気が後退した2000年代に大学の予算拡大に動いたとか。自民党議員だったこともあったのか。「ゆとり教育」は彼の発案だったのかも。まあ、そんな時代も今は縮小の大学だけど自慢話はうんざりだと思ってしまう。
ただ海外生活経験者だったので海外の俳句感についてはその通りだと思う。海外には日本の季語はないが「白夜」というような自然現象は季語になりうるのではないかと。また海外俳句の動向にも元々海外では詩人は特別な人が作るもので一般人は作らなかった。それが俳句によって、三行詩として一般的に広がっていく。最初はそういうことに反感を持っていた。日本では無名な人が評価されるので。しかしオクタビア・パスとかバウンド(こちら反ユダヤ主義者なので評判は悪いという)とか、ビート・ジェネレーションのギンズバーグなどが俳句に興味を示して広まっていく。これは俳句という文化が根付いたことなのだとする。
蛇笏賞の話が面白い。それまで俳句の有名な賞を取っていなかったので自分が選者である蛇笏賞を取ったとか(インサイダー疑惑?)。それを金子兜太に批判されていた。無為自然ではないよな。人為的な賞のからくりなんてそんなもんなんだろうな。政治力がものを言う。
自選句はぱっとしたのがなかったのだが、増殖する俳句歳時記(アレン・ギンズバーグの俳句もあった!)のこの句がいい。あやとりは今の子供たちはやるのかな。毛糸がそもそもないのかもしれない。あやとりで一人あやとりとかよくやっていた思い出がある。「エッフェル塔」もその頃は出来た。ただあれは東京タワーじゃなかったかな?
俳句いまむかし
坪内稔典『俳句いまむかし みたび』から。
春
池田澄子が文語を使っていた。「来」だと音的にあ「苦」を連想するけど、この場合来っという笑いみたいなものが含んでいるのかもしれない。桜田淳子の「♪~ようこそここへ、クッククック」というような。
この場合女性の方がいいのかもしれない。三十路になっても蝶と戯れている行かず後家だとか(そこまでは言ってない。これは差別用語だった)。石川啄木の俳句板とか(「蟹とたはむる」)。
あまり意味はなかった。場当たり的。
白タンポポのことを言っているのかな?たんぽぽを切ると白い液体が出てくることかも。「雲は春」がいいという。
これも場当たり的。
ただごと句のようだけど。別に中学でもなくてもいいんだよな。「春の雲」という季語だった。イメージ出来ない。雲は夏からだろう。
青と赤と白のフランス国旗か?
鳩サブレは春かな。冬は苺大福?やっぱ肉まん系だよな。
難しい句だと持ったら最後は「生鰯」なんだな。「はぜかへる」は跳ねる感じ。大島蓼太(おおしまりょうた)は江戸時代の俳人。
冬の鳥の季語は雀とかあったな。ムクドリは秋だった。今の時期に多く見かけるが。
ちょっと煩い感じがする。「飛びつき」がリフレインされていて一体感はあるという。「しゃぼん玉犬も子も跳び泡となる」過去の思い出だな。遺影みたいな句になった。
ただごと句のようだが、しゃぼん玉を吹くときに空を見上げるから、空の大きさを感じるという。いい句だな。「しゃぼん玉」が春の季語なのが謎だった。
虚子の句はありきたりな感じがする。犬ふぐりは俗で星は雅という取り合わせなのかな。
飽きてきた。もうすぐNHK俳句の時間だった。
NHK俳句
村上鞆彦テーマ、介護、病の句。
介護する妻との日常を詠んだ一句。師走の街の賑わいと、座り込んでしまう二人のスポット空間の対比。素晴らしい。
ふと思い出してしまった。母の声を季語にすればいいのか?
NHK俳句投稿しても無力感だけだった。無力だからこそきままというのはNHK短歌のいとうせいこう氏の言葉だった。胸に刻もう。