シン・俳句レッスン98
朝になっても街燈が付いていた。春灯が春の季語だが、これは自然光なんだろうな。違った春の夜を灯す光だから、街燈でもいいのだった。
今日の目標句。「イナバウアー」も消えていく言葉だったな?これ面白いかも。
ちょっとイマイチだな。逆にすればいいのか?
NHK俳句
NHK俳句で一番面白い句会だった。能町みね子の句が最高得点。
俳人三人が特選なんだが「バス錆びぬ」の「ぬ」が否定なのか過去完了なのかで分かれていた。私は否定だと思ったのだが「ぶちまけられし野に」とここでも完了の「し」が使われているので、文語俳句で詠むべきだったのだ。ただ「ぶちまけられし野に」の破調がいいと思えるかどうかなのだが。濁音、破裂音はリズムが滞りがちで流れとしては良くない句なのだが、それが破調であることの「ぶちまけれし」のパワーがあるという批評に納得はする。ただやはり作者の意図が走っているバスなのか放置されたバスなのか、わかりにくかった。能町みね子は放置されたバスで「バス錆びぬ」は過去完了ということだった。
一番いいと思ったのは、高野ムツオの
で「一斤ほどの」でパンをイメージさせた斬新さと「淡雪」の聖なるイメージ。俳人の五十嵐秀彦が淡雪は、パンが粉を吹いているイメージだと言ったのはさすがだと思った。
ただ如月真菜が「一斤ほどの」が一斤は量を表す言葉だから、それでバスの鉄の重さを感じるのかと疑問を呈していた。そこまではこだわらないよな。一斤というと「パン」をイメージするし、焼き立てのパンが通っていく感じなのだが。
バスなんで、全体的に可愛い句が多いのはどうしたことだろう?
はリフレイン効果が効いていて佳作にしたが、評価はそれほど高くはなかった。あと濁音はいいにくさがあるということは勉強になった。それ以上に俳句は言いたいことが過剰になるより足りない方がいい(読者に考える余地)と言っていた。隙間がある句。そうだな。隙間なく作ろうとしてしまう。あと句会で満点よりも零点の方があとあと名句であるということも多いという。満点は共感を持たれる句であるからありきたりといえばありきたりなのかもじれない。今度の句会零点を目指すか。最近俳句のセオリーを学びすぎて上手い句を作ろうとしているのかもしれない。
現代俳句の海図(石田郷子)
石田波郷門下のサラブレッドだな。
石田波郷門下の夫婦揃って俳人で、母が亡くなってから俳句の世界に入ったという。その時に母と同年代の石田波郷門下の山田みづえに師事したとある。何もかもサラブレッドなのに孤独の俳句とか言う。第一句集を出したあとオフロードバイクにハマりソロキャンプをやるような孤独なのだ。帰る家があり、母と父の俳句があり、石田波郷の名前も譲り受けている人なのだ。もう伝統俳句そのものの人で石田波郷の境涯俳句スタイルがにじみ出ている。
この句も長谷川櫂が批評するのだ。あなたと泉は誰にも邪魔されていない信頼によって結ばれている。あなたと世界は誰にも邪魔されない、と。「泉」は母の名でもあるという。これで孤独感をもたらすと言われても彼女ことをしらなければはあ?だよな。そのぐら言われても彼女には俳句が守ってくれているということだ。そういう俳人に囲まれて孤独と言わないで欲しい。
「春の山」とは桜でも咲いている観光風靡な景色なのか?そして男がここに座れと場所を用意してくれている。そこに従順に座ってしまうのが彼女なのだ。『サラダ記念日』のような恋人の男だと小川軽舟が書いているけど、実際にそういう歌なのかもしれない。どこが孤独だったんだと言いたくなる。
彼女の俳句でいいと思うのは辞書から抜き出してきたような特殊な俳句用語がなく作られているのはいいかな。でもやっぱこういう句を読むとセンチメンタル過ぎるような。この句が素人でも通用するのかと。
彼女は俳句を始めた動機がないという。それで俳句に取り囲まれた世界で生きているのだ。甘すぎると思う。まあ、それで生活出来ているのだからそこは認めるべきなんだろうけど。
「さえづり」が比喩的に使われているのだ。つまり自分は小鳥のようだったと。これが批評として、たった一人で自分の存在を自覚しようとする姿勢とか言われる。何もかもわかってもらえる一人なのか?なんか違うだろうとケチを付けたくなる。受け入れてもらおうもらおうとしながらも受け入れてくれない社会というものがあるのだ。烏の遠吠えのような。あまり好きになれない俳句である。
自分の句が出来てなかった。
『天の川銀河発電所』(小川春休)
男性だった。アントニオ猪木のものまねをする「春一番」みたいな感じなのかな。
年取ってしまうとまったく別人になってしまっている。それが歳月の恐ろしさかもしれない。
「おーい、お茶俳句大賞」のような俳句だった。でも難しい言葉もなく名前も書きやすいので好感は持てる。
長すぎ。春灯はいらないか?湯気がお茶ではなく風呂上がりのような感じだな。一層のこと妻にすればいいのかも。
春灯を入れるとこんな感じか?
キムチが俗で月が聖なるもの。キムチの汁が月を朱く染めているような。情景が浮かぶ。
名月の夜に玉葱暖簾をくぐってくる客だそうだ。客を吊るすわけではなかった。こういうところにユーモアがあるのかな。何気ない写生句なのだが。
「月の客」が効いているのか?天人みたいだ。
仕事で帰らないのかもしれないし、事故にあったのかも。
「寒し」のリフレイン、どこかの集合写真。絵は浮かぶな。詠み手がカメラマンだとしたら手ブレを起こしているかも。それもまた良し。「はよう」が爺臭いという。それはあるかも。老人会とか退役軍人会とか?
山口誓子「スケートの紐むすぶ間もはやりつつ」のパロディだとか。山口誓子の句は飛び出さんばかりの早る気持ちだが、春休はすでに子供に撃たれているという。笑える間を作っているという。
架空の家族シリーズ。これだと熱々の感じだな。
今日句会の俳句を作らなければ。色か虫だった。
玉虫とか。
今日は「や」ぎりの私だな。安易に作りすぎかもしれない。そこは反省。句会で使えるような句もないし。