詩の変遷で観る東京
『東京詩集〈1(1860―1923)〉』鮎川信夫解説/ 正津強編集
新体の詩歌から近代の詩へと、新生都市・東京はどううたわれたか。初の都市詩華集!
江戸から東京へ遷都されモダン都市東京へと変貌していく姿を詩を通して見ていくという試み。詩の解説は、鮎川信夫でなかなか面白い着眼点のアンソロジーになっている。
まず詩は志として、明治の文明開化というより古い江戸を改革していく中で生き様を語ったのは、勝海舟や福沢諭吉が漢詩を用いてということだった。もっともこれは一般庶民には注目されるよりは、政治家や思想家のためのものだったのだろう
詩が漢詩から西洋型の近代詩(新体詩)に変遷していくのに翻訳詩として北村透谷『楚囚之詩』があるが、透谷は自身の詩を作れなかった。その一方で日本の詩歌の叙情詩の流れの中で島崎藤村『若菜集』が出てくる。
明治の文明開化という文脈で白秋らのパンの会(食べるパンではなく、牧神のパンである。)の舶来的な詩は、銀座カフェ文化の人口的な都市を象徴する詩が多く新しもの好きの目を引いた。
それでも日本の詩歌の伝統の中ではやはり啄木あたりの短歌の方が庶民には口ずさまれていたようである。東京のモダン都市としての一面とプロレタリア生活者として詩が併置していく。
萩原朔太郎の精神的なモダン性の詩は、プロレタリア生活詩を排除しながら新しい幻想詩を生み出す。白秋の弟子として、室生犀星は叙情詩の系譜を。朔太郎がやがて日本の伝統詩(蕪村の発見)から戦時体制と組み込まれていく。
高村光太郎や近代の超克を願ったものが、ことごとく日本の伝統主義に跪く。個人と群衆の問題。個人は恋愛詩だけになり、それは一段低く軟な詩とされた。
戦争の破壊性のあとでダダイズム新吉の詩が出て、中原中也が出てくる民衆詩人としては宮沢賢治。彼らは短命であったから戦争に関わらずにいることが出来たとする。長生きしていれば、より深く国家に関わっていただろうと。
未来派の詩人萩原恭次郎の変貌。関東大震災での個人の無力感としての詩。金子光晴は国家体制には与しなかったが、それでも朝鮮人虐殺を歌うことはなかった。詩は韻文より散文となることで生き残りを図ったのか?