シン・俳句レッスン121
鯉のぼり
すでに14日であった。雛人形が嫁に遅れるからとすぐにしまうように言われているが鯉のぼりは別にそういうことはないのかな?
面白い。五月下旬まで泳がせておく地域もあるののか。
今日の一句。
この句はなかなかユニークだった。以前「鯉のぼり」はやっていた。
端午の節句は中国発祥で、それを祝うのは屈原から始まるという。
屈原が自害したことだだから祝うというのはおかしいか。称えるということ。それは屈原が楚の優秀な武人であったが、憲法を定めるのを王から依頼されたが屈原に権力が集中するのを恐れた側近から誹謗中傷を受けて楚の将来に絶望して自害したとか(潔白を晴らさんがためか)。
その後に楚は秦に滅ぼされが、その忠臣を称えられたとか。五月は忌む月で「悪月」や「毒月」と言われるために、その邪気を払うために菖蒲や蓬を使ったという。端午の節句には王から家来へ衣服の支給とかあってそれを祝って忠誠を誓ったという。
川を上っていく鯉のぼりは、屈原を象徴させたのか。
NHK俳句
先週のNHK俳句だった。すでに一週間過ぎてしまったのか。時間の経過の速さよ。
「穴子」と「うなぎ」の違い。両方とも夏の季語だが「うなぎ」は油っぽく「穴子」はさっぱりしている。「うなぎ」が高級魚なのに対して「穴子」は庶民的。また「うなぎ」は川のもので「穴子」は海のものであるという解説。その説明があったあとに「穴子」でも「うなぎ」でもいいのじゃないかと思うような句が多くあった。意味が変わるということで、その意味の変化がポイントのようだ。
これは「鰻飯」で通ると思うのだが、意味的には同じことを言っているので「穴子」でなくてもいいような気がする。
これも「鰻」でもいいような気もする。海の方が絵的に素晴らしいのか?月は季語ではないのか?「月光」だから穴子の方が本意なのだろうか?
この句が一番良かったかな。「鰻」だとまだ性力ギンギンな感じだが「穴子」にすることでそういう性力もないのだと「とうに忘れて」が行きてくる。これは「穴子」でなければ駄目なのだ。
全般的に選者の木暮陶句郎は喋りすぎる感じだ。季語についてとか、うざく感じてしまう。
船長の行方ー加藤郁乎論へ
林桂『船長の行方』「加藤郁乎論へ」から。「船長の行方」は批評だが、批評という読みで船長(作家)の方向性を定めていこうとするものかもしれない。作品は船長の航海通りに進むものだが、その流れを見極めて船長の航海の案内役としての批評かもしれない。
林桂に取って最大の俳人(作家)は高柳重信であろう。その高柳が亡くなって次からの章は高柳なき俳界のナビゲートしていくことにまず選んだのは加藤郁乎だった。加藤郁乎の基本情報としては、前衛短歌から江戸俳諧の世界へ、俳諧の諧謔性というものをもう一度見直そうとする作家なのかもしれない。
西東三鬼
『現代俳句全集(第1巻)』(みすず書房)から「西東三鬼」。
「現代俳句全集」という俳句のアンソロジーを借りたのだが、やはり新興俳句の俳人が面白いとおもってしまう。
三鬼の自己諧謔性と俳句の聖性。海は母の胎内でもあり、退行症状なのであろうか?
「白馬」は象徴であり、白い馬の意味であるようだ。白馬岳で読んでもいいけど意味が遠くなりそうだった。つまり白い馬の皇子様を夢見ていたのだが、汚されてしまったというような句なのか?山の神の祟りかもしれない。
「桃」も象徴でエロス的イメージ。中村草田男はこの俳句をナンセンスであると切り捨てた。西東三鬼の諧謔性は俳諧特有なものである。俗であることが俳諧なのだ。
最初の桃の句と並んで連作されたのである。思わず「夜の桃」と言ってしまったのかもしれず、それは駆け上っていく若い娘の尻を眺めてしまったのかもしれない。そうした物語性を含ませているのは西東三鬼の俳句だった。三鬼の俳句にはエロさが纏わりつくのだ。それが句作のエネルギーとも言える。
この句から三宅邦子を想像したという人がいたが、三宅邦子は小津映画のお母さん役とかが印象的な役者だが、それが道化師姿で白い水着か何かで鞭を振っているのである。しかし落馬したときの笑顔が三宅邦子だったという。そのイメージを拭い去れないでいる。三鬼の俳句にはとんでもない解釈とか出てくるから面白い。
この句も意味不明だが露人ワシコフの滑稽さと力強さを感じてしまう。
戦後の俳句だが。「国破れて山河あり」の杜甫の「春望」を踏まえて句であるという。
三鬼の俳句の自由さは自由な解釈を呼び込む。例えば十五夜という季語の季題がどうのこうのとか関係ないのだ。そのイメージされる寝相から聖性の月と外界の俗の姿が対置されるのだ。
これは時事詠だと思うが何か落つを想像すればいいのか。人かもしれない。そのメーデーの明るさという祭りとイメージと現実も何かを感じさせる俳句なのだと思う。
正岡子規
仁平勝『俳句が文学になるとき』「正岡子規『獺祭書屋俳句帖抄上巻』──発端としての俳句」から。正岡子規の写生は、文学を諦めたところから、俳句は桑原武夫の言うように「第二芸術論」なのだ。それで短歌にはまだ文学的なものに未練があったのかもしれない。正岡子規の俳句が子規らしくなってくるのは病後ということで、そこに諦念というものがあるから自己を消せるというような。
正岡子規の俳句がすべていいわけでもなく、『獺祭書屋俳句帖抄上巻』には凡作も多いという。
子規が芭蕉や『源氏物語』から導かれて句作したのがよくわかる。そこにとりわけ新しさはないと言う。子規は絵画の手法から俳句の写生と技法を目指したが、この写生は言うほど簡単ではなかった。ただ子規の方法論として収録句を四季立てで分けて古典詩からの影響を明確にしていた。
この句も写生句であるというよりは日本画的の掛け軸のようでもあり、まだ子規の本領は出てこないという。
この句は「春風」という伝統的な季語に「赤し歯磨粉」という現代のものを対置させたことで日本画よりは西洋画(油絵的なのか)になっているという。この句で子規は配合というものを掴んでいたという。春風に赤という色は絵画では出せないが俳句の特徴を示した写生だという。
さらに赤が際立ってくる。筑波の山にたいしての赤蜻蛉という配合。「なかりけり」は子規の感動を駄目推ししたに過ぎないが、それ以上に筑波と赤蜻蛉の配合が勝っている。
この句では病気で外に出られないが「尋ねけり」が能動の「いくたび」で動的な映像になっているのだ。これはそのたびごとに雪の深さが変化していく様を読んだ名句だという。写生というよりも観念世界の雪なのかもしれない。その「いくたびも」が写生というが、それは違うだろうと思える。そこに問答の積み重ねがあり、妹の存在が隠されているような気がする。そういう気配としての奥深さがこの句にはある。
この句からその影の気配が感じられない。
ここには詠み手の子規の視線があるのだった。
そう碧梧桐に手紙を送ったという。しかしその陰に気配が感じられる名句を残していた。それはもう文学と言ってもいいかもしれない。
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